ちょっとわたくしごとになるのですが、というよりすべて私の思うことは私事なのですが、このごろあることから、3次元どっぷりな人に出会いました。出会ったと言っても顔を突き合わせて話したことはありません。けれども伝え聞くところによると、彼は私のことを殊更口汚くののしり、蔑み、あざけり笑い、ありとあらゆる罵倒語で否定しているそうである。この時点で、すでに、なるほど、なのです。つまり、彼は自分が嫌いなのだな、自分の人生を恨んでいるのだなと分かるわけです。以前であれば、なぜ本当の自分自身に気がつかないのか、と叱咤激励のつもりで皮肉のひとつでも言ってやったところなのですが、このごろでは、「あなたの選択を尊重します」と思って何も言わないことにしている。これは、見守っているというのとちょっとちがう。私に敵意を抱き、さんざん侮辱していた相手でも、彼が本気で変わる気になれば、懇切丁寧に道を教え諭す用意はある。けれども、いまの自分をもっと長く経験するのを選んでいるのであれば、そっとしておく。彼のことは彼に任せればよいのだから。これは、愛だと思う。愛は、敬意と尊敬だ。だから私は、いつでも彼を監視し、変わる気になるのを虎視眈々と待ち受け、彼が地獄の苦しみでのたうち回って、もう嫌だと音を上げたその時に、それきたとばかりに意趣返しをするつもりはない。忘れている。見守っていない。彼が変わる気になれば、それに見合った人、書籍、事件、・・・そういうものと出会うことを知っているからだ。それは、必ずしも私ではない。むしろその確率は非常にちいさい。だから、邂逅とは貴重なことなのだ。巡り合わせは神の配剤なのである。今、彼とは直接話すことはおろか会うことすらない。彼は自分にあらかじめある観念と戦い、それに向かって悪罵しているのであって、私には何一つ言っていないのである。そのような状態のスピリットとは例えていうなら、昏睡して横たわっている人と会話をしようと試みるようなものなのだ。彼はきっと夢の中で彼が造り上げた私に苦虫をかみ殺したような表情で罵詈讒謗を放っているのだろうが、その姿を見ている私には目を閉じていびきをかきながら熟睡している彼氏か見えないのだ。たとえば彼は、人の特徴を観じて素直に表現するのは、安易に人を褒めそやし誑(たぶら)かすことだ、とはなから決めつけて私が人を自分の都合のいいように洗脳していると言っているそうだ。きっと彼には、人を良く言う輩は嘘つきだ、うまいことたらしこんで金儲けでもしようとしている悪い奴だという観念があるのだろう。それで、彼は人を悪く、低く押さえ込んで狭い枠の中から出ないように仕向けた上に、欠点ばかりを指摘し、そのせいで自分が被害にあっていると訴えているのだ。それが騙すのではない、正直なことだと思っている。私は、そのような彼を別の表現はしない。そのような考え方をしている人だ、と観じる。それだけだ。60ワットは60ワットと言い、2ワットは2ワットと測定するのみだ。60ワットと2ワット、どちらが善いというのでもない。ただ、そんな明るさだと観るだけのことだ。60ワットには60ワットの適所があるし、2ワットには2ワットの適所があるだろうと思うのみだ。2ワットの彼をあなたは100ワットですねえ、すごいですねえ、などとは言わない。そんな太鼓持ちみたいなことをなぜしなければならないのか。彼に自信がないのは、彼の選択によるものである。彼が自分で威張っているとおり彼は立派な大人の男なのだから、自分で自分を振り返り、自分の選択に責任をもっていることだろう。そんな彼に私がおべっかを使う必要はないし、彼の選択を尊重している。そして非常に厳しい眼でみている。もし、彼に少しでも慢心があれば、少しでも恨みごとを言うのであれば、少しでも言い訳するのであれば、少しでも愚痴を垂らすのであれば、私は即座にその低度の人格だ、と観察する。彼が私の生き方を蔑み、改善要求をすればするほど、彼は自分の人生や仕事を愛してやまないのだな、と思えなくなる。私は自分を愛しているし、自分の仕事も生き方も愛と感謝の意を持って取り組んでいる。太陽の光に愛を感じ、月の輝きに慈悲を感じ、自然の恵みに涙する。その私を駄目だ、悪い、どうしようもないやつだ、そんなつまらぬことに感謝するのは負け惜しみだ、と押し殺そうとするのだから、自分はよほどあらゆることに愛を感じていないと威張っているのにちがいない。そんな自分をこれでもか、これでもかと経験したくて仕方のない人に私は一体なにが言えるのだろう。こんなところで、つぶやくしかできない。本当は、こんなことすら不要なのかもしれない。だが、ここで書いている目的は、他人の魂の選択は本人の責任であるから、余計な干渉はしないのが愛なのではないかということを言うことであるからして、やはり彼を変えてやろうとか、問いかけようとは思っていないのである。彼は彼で善いのだ。それすら、他人の私が言うことではない。変わりたくなったら、変わるだろう。今か、3年後か、10年後か、来世か、さ来世か知らぬが、彼が思い立ったが吉日。それがいつなのか、彼の自由だ。大宇宙の調和を乱すことに関わらない限り、それは潰されることなく、いつまでも先延ばしが許されている。だが、私は若者には言う。うざいと言われようが、嫌われようが言う。それがお前か? それでいいのか? と問いかけ、そして、お前には素晴らしい偉大な強さがある、と励ます。本気になってやればたいていのことはかなう。どんどん眼を拓いていけと諭す。けれども、1000ワットの魂と同居していながら、眩しいと文句を言って布をかぶせてすまそうとする立派な大人にまでそんな問いかけはしないし、励ましもしない。これは厭味でも嫌われたくないからではない。本人の選択を尊重しているのだ。すでに私は彼に忌み嫌われている。それを取り繕おうとも、気に入られようとも思わない。言いたければなんでも言って私をおとしめればいいのだし、崩壊させようと企図すればいい。そうしたところで、私が人生を愛し、宇宙や自然に感謝していることにはなんらかわりはないどころか、ますます私には分かることが増えていくのである。カエルのつらにしょんべんという言葉があるが、かといって私を悪罵することは無駄なことではない。私はその波動の周波数をあげて宇宙に放出する。彼の創り出したエネルギーは貴重だ。それは消えたりなくなったりしない。どんな周波数のものでも彼はエネルギーを創り出した。そうやって宇宙のエネルギーの埋蔵量は増えるのだ。それゆえに、宇宙の時空は増大しつづけているのである。それがありとあらゆるものの原料になっている。みな、次に述べる錬金術を知っている。他者の自分に放った恐れから出たエネルギーを愛に変えて返すことで相手を癒やすことを。相手を癒やさないでも、それは宇宙のどこかに存在し、誰かが使っているということを。(植物も動物もその恩恵にあずかっていることはもちろんのこと、いつか述べることになると思うが、特殊な波動をまるでコードやディバイスのようにパーツとしてくみ上げてクリスタルを創り出している存在がいる)ネガティブな波動を受けたとき、ニコッと笑ってしゅわっとその周波数をあげて戻すという技は誰でもできるし、やっている。それが雰囲気を変え、次元を変え、パラレルリアリティを変えることを誰でも知っている。だから、眠りこけている立派な大人に出会ったとき、無視するのでも、見守るのでもない。尊重しているのだ。われわれはなんでもできるのだ。エネルギーの変容すら容易にやっている。このことがわかれば、実に楽しいではないか。どうにでもできることを知っていることの余裕。そして、ひとのたましいの選択には、創造神すら立ち入れない。創造神と対等だからだ。そのことを知っているとき、責任の意味が明確になる。こんこんと眠りこけている人が悪夢にうなされて、もう目覚めたいとかすかな意識で訴えるなら、私も彼の創り出した何層にもなったネガティブな観念の雲を通して、つまり表現にネガティブなニュアンスをこめて伝えてもいいが、いっかいしんだほうが早いかもしれないと思う。どうぞ、その悪夢に怪獣でも登場させて、ビルの谷間で踏まれてください。そうすれば、がばっと目が覚めるかもしれません。だから私は、文句を言いたくなるような人に出会った時、それを自分の鏡として自分を振り返る機会にすることを勧めるのだし、彼を変えることより、自分のなりたいと望む姿(周波数)に焦点を合わせた方がよいと思うのだ。そうやって自分の在り方の放つエネルギーが高度化すれば、相手はそれに同調するかもしれない。少なくとも、私といる時は。と思うのだ。私といる時、私が居心地がいいならそれでいいじゃないかと思うのだ。彼が他の人といる時には、また別の関係性があるだろう。組み合わせによって愛の作り方も表現の仕方も異なるのだから。