自分の好き嫌いに正直なのはすばらしいことだ。抑圧するのはもってのほかだ、と思う。偏執だろうが、各人の勝手である。思う存分、好きな物以外を嫌えばよい。それこそ好みの問題である。

けれども私がこうして真理を見極めようと思い立った時、はじめに思ったのは、自分の好き嫌いに普遍性があるかどうかということでした。

つまり、周波数の高いのが好きで、低いのが嫌いかということです。
低いのを憎み、高いのを愛しているかと言い替えられるかもしれません。
正確に言えば、なんにしろ低いのが憎しみで、高いのが愛なのかもしれません。

このことは、自分が周波数を特に嫉妬や怨恨などの人間特有の低度の周波数なのか、感謝や一体性などの高次の周波数なのかを感知できている、あるいは感知している自分を認めているかと言うことができるのではないかと思います。

けれども同時に低度の周波数を毛嫌いし、高次のをほめそやすのであれば、これは勧善懲悪、2元性にひたっているということかもしれません。

ただ、周波数のちがいをより精確に感知する。それがどういうことなのか、どう作用し機能しているのかを知るということでいいのではないかと思います。

そして私がハートにダイヤモンドをもっている(ことを自覚している)人々に出会い、そこで起きてきたことを通してあらためてはっきりと思ったのは、自分の好悪や愛や恐れ、そういうものは周囲の状況や他人のせいということはないということでした。

体験とは別に、経験している。体験から経験が引き出されている。あらかじめ持っていた信念や善悪の判断が気づかされるのだと思いました。

確かにその人との出会いや出来事がきっかけとなってはいるが、必ずしもそうでなくてはならないということはなく、自分がその体験を進化の機会にすると許すことによって、これまで自分が選んできたことへの気づきや変化の経験をしているということです。(その体験は、生まれる前に決めてきていることもあるでしょうし、またほんのさっき気まぐれで思いついたことで引き起こされたかもしれません)

ちょっと話は飛びますが、宇宙の法則は4つしかない。まず、<存在している>。それから、<一体である>。それゆえに<出した周波数は自分が経験する>。存在すると同時に<変化している>。(変化するということだけが変化しない)

これは、バシャールも言っていたし、神との対話にも書いてあった。それから、他にも言っている人が幾人かいる。僕もそう認めざるを得ない。

存在しているのは、<意識>と思われます。わかっていそうでわかっていない、わかっていないようでわかっている。それが<意識>ですね。聖書の冒頭に記されている「はじめに言葉ありき」の<言葉>は、思いとか行動と言い替えられるものかもしれませんが、私は<意識>のことだと思います。

そしてその意識とは、<私>ではないかと思っています。

ひとつの大きな意識の内部が無数に分割しているから、どれも<私という意識>なのです。つまり、自意識だと思います。われ思う、故にわれ在り。これは、私がいるという意識があるから、私は存在しているのだ、と言い替えてもよいのかもしれません。

意識がわからないという人には、「あなたはいますか?」と問うたらよいかと思います。もし、「わからない」と返ってきても、わからないというのは、論理的に言っても、わかるということが在るから在るのであって、わからないということも在る、存在しているからこそ存在しているのです。

存在しているということは否定できない。否定すらも存在している。ないのではない。<ないのがある、という在り方>なのだと私は思います。

ですから私たちはみな、神意識をもっていると言われるのでしょう。私というのは、巨大なひとつのクラウドコンピューターから端末にくる意識なのかもしれません。英語のI(アイ)が1と同じ記号なのは暗示的ですね。私はおおきな私と源が同じだということです。それをカスタマイズしているのが、個別の私というわけです。けれども、大文字の私にはちがいない。
ちょっと誤解があるかもしれませんが、全員が同じ一つの私という借り物の私を名乗っているということです。けれども、誰一人として偽物はいない。ぜんいんが、私を名乗るにふさわしい存在なのです。

それはともかく、もし宇宙が、この単純な法則で運営されているとするならば、個別の私も変化せざるを得ないということになります。そして、どうせ変化するなら、進化した方がいい。と私は思うのです。低い在り方に飽きたらより高い在り方(周波数)で生きることを、覚醒し悟った状態で生きる方が苦しくなく楽そうだと思うからです。(実際には、光を知れば知るほど闇も深くなっていくようなところもあるのですが、地獄をはいずりまわっている感覚はなくなるようです)

ひとのふりみてわがふりなおせ。

とは、昔から言われていることですね。他人の言動を観て、自分の言動を反省し、選び直せ(取捨選択しろ)という意味だと思います。言動の放つ周波数は、その裏にある観念や信念、さらにそれを支えている意識と呼ばれるおおもと(大本、大元、大霊、すべて、ALL THAT IS)から出ている。さっき述べた大文字のIのことです。

すべて、という意識になんらかの制約を与えたのが、そして自分(個別の私)の意志で与えたのが信念という枠ということになるのではないかと思っています。それは、なんにでもなりうる諸元の波動の周波数を変えるための装置といってもいいかもしれません。そして、それのない人は、僕の観察では、いない。人間はなんらかの信念で生きている。信念が変わらないというのも信念。ですが、変わるというのは、真理かもしれません。(変化が普遍的な法則だとすれば)

つまり、宇宙が変化することに気づいた存在は、意図して自分の望む方にすなわち進化することを選んだ。(選ぶというのは、自覚ですから覚醒度が高い、眠っていないということだと思います)(自分の望む方とは、いまの宇宙を作っているおおもとの波動や意志に戻り、またはそれを超えていくということかもしれません)

そのとき、状況や他者に観えたことが、今の自分の不幸をもたらした、やつのせいで自分の築いていきものが破壊されたと解釈するのか、それとも、あらかじめ自分の内面にあった、無意識に選び握りしめていた周波数が明確になったと取るのかということにちがいがあると思うのです。

全にして個、個にして全。

これが、あらゆる存在、個別化された意識の性質だと思います。

ならば、このとき、外側にあるもののせいだ、とするか(その方が一見、楽)それとも自分の内面がホログラムのように外側に投射されて見えたとするのか。

僕は内面が観えたと取ることを選んでいます。なぜならば、そう取った方が自分が進化するチャンスになるからです。どうせ変化するのだから、この際へんかしよう。相手に観えたことを自分の投影として己を省み、周波数を選び直す機会にする。そのように思っていた方が進化は加速的だと思います。

このことは、誰でも知っています。ひとのせいにしたって始まらない。とか他人を変えるより前に自分が変わらなきゃ、とか本人がその気にならなきゃ何も変わらないとか、日常にも口に出して言います。それなりに人間経験を積んできた人霊なら気づいていることです。自分がそのことを知っていることによくよく気がついたということかもしれませんが。

始めの問題に戻りますが、たとえば、お金を持っている人が好きなのか、お金の稼ぎ方を知っている人が好きなのか、それも富の創り出し方を知っているのか他人から搾取する仕方を知っているのか。どんなレベルで好きなのかがその人の品格にも及ぶと思います。品格は人格、あるいは霊格とも言えるでしょう。

自分には創造性があり、それはいつでも富を創り出す。と知っていること。そしてこの物理世界でもそれを実現する人。もし、そういう周波数の人が好きなら、普遍性があると言えるのではないでしょうか。そして自分も望めば、それが可能だということです。

たとえば坂本龍馬という人物が好きな人は、もしかすると彼におおきな調和という周波数を感じるからかもしれません。それは、より神意識に同調した在り方なのではないかと思います。

あるいはサローヤンという作家が好きなら、もしかすると宇宙はなんでもアリだという大きな視野やそれにたいする最大の赦しを観るからかもしれません。それは、より神意識に同調した在り方なのではないかと思います。

宇宙の進化した存在たちは、宇宙の調和が乱されたない限り、不干渉であり他者の主体性を尊重しています。それを経て、調和という概念そのもの、6次元、7次元という次元そのものに私の意識を移行していくのでしょうが、そのような在り方をしているほど、周波数が高いということになるかもしれません。そういったものほど好きか、ということを自分に問いかけるわけです。

ところが、そうでない在り方を嫌い、嫌うだけならいいのですが毛嫌いし憎み撲滅しようとしたくなるというプロセスを私は一時期たどりました。つまり、時間を挟み込んだのです。この時期が最も老け込んだと思います。けれどもだからといって、キリがないとか世の中変わらないとか、長い物には巻かれろといったていのよいあきらめ方をするのは、潔さどころかさらなる深い催眠と睡眠に陥ったのであると思いました。

他者に、とりわけネガティブなことが観えたとき、それは自分の内面の現れだとみなしたとき、恨みや憎しみは生じない、というか生じさせないようにそう観ているのかもしれませんが、楽に在ることを選んでいるのだし、楽に在るようにかんじます。他人のせいにすると、なぜ苦しいか、それは他人を無理矢理変えることはできないし、自分が変わる方が早いからです。楽な在り方は楽な思考や信念を選択する。楽な感情や笑いを選択する。そのように思います。

恨みというのは、過去の出来事に自分が与えた否定的な意味をもういちど繰り返そうとする理性(マインド)の働きですから、自己がハートと分離している状態なわけです。自己がハートの中心に集中していないということです。その状態は、おそらく比較的周波数が低いのだと思われます。そしてそれを自分に誘導した瞬間、肉体や精神に損傷を与えているように思われます。何年後かに返って来るのを待つまでもなく、すぐに経験できるものなのではないでしょうか。これが、一体性の現れでしょう。出した周波数は受け取る、経験するということを知ってたら、あだおろそかに出せるはずがないのです。

しかも、それが楽な在り方か、ということを問うと、嫌いだからといっていちいち憎んだり恨んだり、攻撃して撲滅しなければならないものか、と思うのです。

嫌いだな、と思えることがいつまでも低度の在り方でのたうちまわっていることであるなら、自分は高度さを選んでいるということなのでしょうし、その嫌悪感でビリビリ震えて肉体を傷つけることはないと思います。単に嫌いだ。終わり。選び直す機会をありがとう。それだけのように思います。

嫌いな在り方をしている人を責めることもないし、進化を無理強いすることもない。嫌いでいて構わないのだけれど、あくまでその人はその人の在り方をしているんだな、と、そういう自分が経験したいんだな、と思って尊重し、自分の進化だけ自己中心的に利己的にやっていけばいいのではないかと思います。かれは、その経験をするために、自分の選んでいる周波数がなんであるかを忘れるという方法を用いているのですから、経験のまっさいちゅうで、まだ次に進みたくない人の眼をむりやり開こうとすることはないのではないかと思います。

たいていまだ準備のできていない人は、自分からこう訴えますよ。「どんな考えをしていても自由だろう? スピリッチュアル? あぶなーい。おおきなお世話。他人の心配より、自分の心配をしろ」

霊性をひもとくのは、CPUのアーキテクチャーを設計図の状態でながめて、ここをこう繋ぎ変えればもっと短縮できて高速化するとか、このウエハースはもっと薄くできるなどとやり変える行為に等しいのだと思います。しかも、コンピューターを起動し、使用している最中にです。こんなヘタを打てば感電死するようなことに恐れおののかない人も珍しいのだと私は思います。

寝た子を起こすより、目覚めた人同士で楽しめばよいのではないか、と思っています。

もし、恨みで仕返したくなっても、その波動を出せば、同じ波動を経験することになる。出した瞬間に。そして、その余波を。だから、どんな存在も、どんな言動も、自分の分身だと見なして感謝する。自分の進化の手助けをしてくれている存在だと見なして感謝する。これが最も理にかなったことだと言えるわけです。

出す波動に細心の注意を払う。

このことにいかに集中できるか、これが高次の在り方ということになりますが、この物理次元の物質世界においては、ハートの中心の一点に集中できないことがある。ゆらぎ、というものもあるのでしょう。それがある故に、反省するチャンスがあるともとれるわけですが、一点に集中できないことを許す、認める方が、一点に集中する頻度をあげるのかもしれません。

できる限りハートの中心から出た行為が好きなら、それは普遍性が高いのではないか。と思います。嫉妬や恨みなども人間の価値観をみれば、みんなを味方につけているので多数決で勝てるような気がしますが、実のところ、そうとばかりも言えない。自分の目する結果と反対のことを生じさせてしまう。たとえば・・・。詐欺の疑いのある人を責め立て訴えるのは、いかにも正義だし、お金を取り返せるような気がする。ところが、たいていはそうならない。裁判費用や余計な心配をしたり無駄な時間を費やすことになる。詐欺まがいのことをしていると見える人でも、かれの世界モデルに照らせば正義なのだし、人間誰しも咎められるのは本意ではない。むしろ、こちらの非を認めて妥協案を提示した方が多くを取り返せるように思う。

つまり、かれも人なりと見なして、出す周波数を高次のものにする方が意図する結果を生み出しやすいということです。

好悪が周波数におうじて選択されているとき、その人は普遍性が高いということになるのではないかと思っています。

好きな方は魂魄ぜんぶで、全身全霊で好めばいいのではないかと思います。嬉しさや喜びまで放射して好めばいいのではないでしょうか。釈迦のイメージみたいに仏頂面をすることはないのではないかと思います。

いまのところ、僕はそう思っています。