易水流れ寒うして
僕が入学したのは、旧制高校がなくなって40年、その残党すら消えて、37年くらい経った頃だった。
もう40年か、まだ40年か。
その頃の僕には実感がなかった。ともかく大学構内を歩いていたのは、旧制時代とはまるでちがった服装、伝統、思想をもった学生ばかりだった。
映画にもなった旧制七高との野球試合があったのが、確か僕が1年か2年の頃だったと記憶している。その試合が今市営球場かどこかであっているという日の朝、武夫原のわきを歩きながら、なぜここでやらないのかなと思ってちょっと悲しくなった。
大学の合格よりも、入寮が許されるかの方が気になっていた僕は、それが決まると一目散に学生寮に飛んで行った。そこには『薫風寮』だとか『恵迪寮』といった気の利いた呼び名はなく、ただ学生寮とだけ言った。
寮に入ると、さっそく洗礼というか大声で自己紹介をするのをやらされた。僕は嬉々としてやった。そうしている自分が嬉しくてしかたがなかった。後に、旧3高の『吉田寮』に泊まった時に、ここでは先輩が後輩に酒を飲ませて何かを強いるという伝統はなく、むしろ自分が酔いつぶれるという話を聞いたが、そこに優劣があるようには思わなかった。
そして寮歌なるものを教えられ、これも僕は嬉々として覚えた。
寮歌には、裏と表があって、表は『武夫原に草萌えて』で、これは青年の高邁な志を高らかに謳い揚げる元気なもので、裏は『易水流れ寒うして』だった。旧制時代にはこれよりもたくさんの歌をうたったらしいのだが、僕の時代には主にこの2つをそれも寮にいる男子学生だけが引き継いだような形で歌っていた。
『易水流れ寒うして』で始まるこの裏寮歌の歌詞の意味が当時、僕には解らなかった。この歌詞の解説を聞いたこともない。曲調からなんだか物悲しい響きだけを感じていた。これは、逍遥歌として明治39年に成立しているようだ。
歌詞は『広原草は枯れ果てぬ』と続く。ゆっくりゆっくり呻吟するかんじで歌詞を噛み締めながら歌う。さらに『見よや、龍南、龍は臥し』と続く。
きっと旧制時代の学生ならば、意味をわかって歌う先輩から以心伝心でその意味するところを嗅ぎ取り、その感情に乗せて歌詞をくちづさんでいたのであろう。当時の僕は音程通り、歌詞通り歌うことで精一杯であった。
それがさっき、ふと、こういう意味ではないかと思った。卒業して20年以上たった今、直面していることと照らしたとき、氷解したように腑に落ちたのである。まるで間違っているかもしれないし、あまりに当たり前の解釈なのかもしれない。しかしそこは恥を忍んで公開しよう。
つまり、『易きに流されて行く人の心は、しらけてしまうほど情熱に乏しい。その人の心が流れて行くと、草花も枯れてしまうほどだ。そして見よ、あれなど顕著なものだ、龍南(地名)の龍神さえもその頭を臥してしまうほど元気を殺いでしまう』こうした意味なのではないか。
そして、この後、『鉄腕撫する健児あり』と続いて1番が終わる。
5高生は自分たちのことを龍南健児と称したようだ。この歌詞の意味するところは、『けれども、そんな易きに流された人たちのいる世の中でも、ほら、腕をなでて朗らかに笑う高邁な精神をもった5高生がいるではないか』ということではないか。
僕はそんな精神のある大学を選んだ。もし旧制高校があったなら、何にも換えて、一心不乱に受験勉強をして入学をしていたことだろう。そんな憧れを想起させる魅力があの大学にはあった。旧制高校が夢でしかなく、出身者の吹聴する青春がすべて幻想だという批判も当時からあった。
だが僕には、青年の力と志を、損得抜きで満足させる何かがあったのではないかと思いを馳せるのである。
