私は今まで、邪か魔はないという言い方をしてきた。じゃまなものはないという意味においてだ。だが、いわゆる邪とか魔と呼ばれる周波数は、存在している。

そしてそれがなんらかの形を取って憑いているとするならば、私自身の中にあるまだ光を当てていない部分や未熟なところがホログラムのように私の外に投影されているのであろう。

それが悪いから排除するという観方を私はしない。(緊急の場合は別として)

もしそれに気づいたならば、問いかけであると私は思う。

『あなたは、いままでの在り方を続けますか? それとも選び直しますか?』

そこで私は宣言する。

「ありがとう。今の在り方には飽きました。次に行きます。これまでありがとう」

と、愛をもって手放す。

こうしてより高次の在り方に自分を引き上げることができたなら、その邪魔は一体全体じゃまなものであったのか?

はたまた悪であったのか、ということだ。

進化が目的だとするならば、まさに彼らの視覚化や現象化(いわゆる霊障など)は善ということになりはしないか。

私の一部が視えていたということになる。つまり、比較的低い周波数の部分がありますよ、と報せているのだ、と私は思う。

こんなにありがたいことはありません。

悪い物として忌み嫌い、排除するべき存在どころか、明確に報せてくれてありがとうなのだと思う。



数日前、朝起きたとき、「狐がついている」とつぶやいた。つぶやいた瞬間、左肩から背中にかけてぞわぞわっときた。寒気がしてきたのだ。「狐か?」と言うと、またぞわぞわっときた。聞くたびにまるで痺れるような冷たい感覚が私を覆った。

なぜ、それが? と思いをめぐらせた。

どこに自分の弱い部分が?

そして行き着いたのが、狡猾さである。長い間私は賢明であろうとしてきた。理性ではなく、ハートフルな知性である。 ところが、 狐の姿となって現れているとするなら、私にはまだずる賢いところがあるのを示唆しているのではないか。

そして思い至ったのが、騙しである。

いったい私は誰を欺いていたのか。こたえは簡単だった。

私自身である。

つまり偽りの肖像を見せることで、自分の正体をひた隠しに隠してきたのである。見栄、てらい、偏見。それらもあったのにちがいない。そして最も恥ずべきは、偽悪家を演じてきたことである。ピカレスクを気取っていたのである。それは、闇の中にいる者どもに闇をまとって光を届けんと欲した次善の策だと思い上がり、わざと批判めいた口調や斜に構えた態度で真理を表現しようとしてきたのである。憎んでもいないのに、憎んだような言い方。怨んでもいないのに、怨んだような口吻で物を書いてきたのだ。私をよく知る者は、いつまでそんなことをするのかとあきれ、心変わりをじっと待っていた。

昨年の9月に、私のそんな態度をすぐに見抜き、私が自分の周辺に築いていた要塞を溶かし、丸裸で立てと促す者が現れた。それ以来、私は偽悪家をやめたつもりだった。

まだその癖が残っているのだろう。

私は、狐にこう言った。

「きみがいたいなら、いつまでもいていいよ。ありがとうね、教えてくれて」

しかし狐は居心地がわるくなったのだろう。ぴょんと跳ねて私から離れ、立ち止まっていちどこちらを振り返ると無言で走り去った。白い仔狐だった。その顔は、あどけなさを残した素直な光を放っていた。牙をむき、己の失策を嘆く様子も恨みがましい様子も見て取れなかった。

わたしは、自らの左肩に向かって「狐か?」ともういちどたずねた。すると、かすかにぞわっとした。そしてまた「狐か?」とたずねた。こんどは、ほのかにぞわぞわっときた。まるで残り香のように。

二三日経つと、それは消え去った。

私は、ハートひとつで物を言おうと決めた。たとえ誤解があろうと、たとえ理解不足があろうと、ともかく心に正直なことだけをしたためよう。そう思った。

3 

ひとつ前の私は、今の私より周波数が低い(高い場合もある)。それは悪でもない。単なる歴史である。
他人や社会または政治などに対して完璧を求め、そうでないなら全てが台無しであるかのように蔑む観点もある。だが、その周波数で存在している他者は、自覚せずとも一個の存在として他者に貢献している、と私は観ている。劣っている在り方、悪い在り方、忌み嫌う在り方というものは、単なる観方にすぎないのだ。限定的で二元性の強い三次元特有の観方であるといえるだろう。

もし誰かの在り方を裁断し否定したり悪のレッテルを貼る者があれば、己の在り方の過去と未来を否定することになりはしないか。

仮に、次にさっき自分が悪の裁きをしたばかりの人と同じ在り方をしようと望んだとき、二の足を踏むことになりはしないか。それとも厚顔無恥に自分の下した判決を忘れ、さっさと乗り換えるのか。

とくに、慣習やしきたりやすでに機能不全を起こしている信念をあきらめ、もっと自由奔放に生きようとしたとき、すでにそのように生きている人をやにわに見咎めていた自分がブレーキをかけやしないか。

意を決して乗り換えたとき、それまで自分が咎めていた人から、咎められたらどう思うか。

裁くな

基督はそう言ったのだ。



手放す、という言い方をするし、それを実行している人もあるかと思うが、これをどんな気持ちで行なっているかが重要なのかもしれない。

つまり、その在り方をしている人を愛をもって観察したとき、自分がそれを選ぶか、または蔑むか超えるか、そういった選択肢を提示しているということにすぎないと思うのである。

このことは、たとえばこんな言い方として表現される。
『文句があるんだったら、お前がやれ』
皮肉なことに、日頃評論家風情で辛辣な他者批判を繰り返している者こそ、この深淵な真理を口にするのである。この発言を誘発するために、むしろ安全なところに身を置いてなにもせず、あれは悪いこれも悪いと発しているのかもしれない。(えてしてこの描写そのものも批判ではない。私自身、このような在り方をしていたことが何度もある。これを抜けたと錯覚して、憎々しげに批判じみて言うなら、まだ私はその在り方にどっぷり浸かっているのであろう)

そして聞く耳のある者は、そうだな、と思って府に落とすであろうし、同じ周波数にある者は「そんなことを言うお前はどうなんだ?」と怒って聞き返すかもしれない。

すべからく自分や他者がどんな状態であろうとも(つまりどの周波数の意識をわがものとしていても)そのまま肯定し、容認する。けっして裁断して優劣をつけることはないのである。汚れてもいないし、穢れてもいない。ただ、今の彼のたましいは、そうで在るというだけなのだ。

と観ると、誰も批判すべき人はいないし、されるべき人はないということなのではないか。

そうすると、愛ある観察だけが残る。愛をもって、愛の側面を見つめる。どんな人に相対する時でもだ。実は、みな知っていることだ。だが、この観方に達するまでにどのくらい時間を挟み込むかという点に、人の選択の自由があるように思う。

すでに過去の在り方となった他者の選択による発言や行動を取り上げて、いつまでも責め続けるのは、いったい己自身に何をもたらしているのか。
相手の学びを否定し、低く安いと見なし、軽蔑しつづけるのは、己の在り方の低さを表明しているのだし、進化を遅滞させているように思う。そのことによって経験しているのは、恨み辛み苦しみ憎しみなのではないか。

他者が何らかの体験から、より深い、なにものに気づいたか、なにものを学んだか、そしてなにものを思い出したか、と問いかけ、励ます方が、自分や他人を肯定し容認していることになりはしないか。

早急に裁き、罰を与えることのどこに益があるというのか。

いったい、誰がなにを学ぶというのか。

なぜならば、私たちのしているのは、より高い周波数に意識を移行させて、より楽に在ることだからだ。マインドをハートに統合させる集中力を養い、知恵として生き、自他一体として生き、こうやったらもっとおもしろいという創造性を発揮して生きて行く、すなわち進化的な変化だけなのではないか、と思う。

周波数が高いとはどういうことか解らない。そうぼやく人がある。

たとえば、ここにまんじゅうがひとつある。ふたりいて分けて食うことになった。私がふたつに分けた。右手にあるほうが6分目、左手にある方が4分目になった。

はい。

4分目の方を渡す。もし、相手が腹のすいている子供だったら、それは不公平と見えるだろう。もし、それがダイエット中のマダムだったら、ありがとうと言うだろう。

6分目を腹のすいた子供に渡し、ダイエット中のマダムには4分目を渡す。これがこの場合の周波数の差であることは誰でも容易に観分けがつくことだろう。

殺してくださいと心から望んでいる者を痛みもなく殺すのと、死にたくもない者を殺すのが同列の殺人として裁かれる。

そして皮肉にも、死刑の執行については裁かれもしない。極刑に処すべきなのは、裁きそのものなのに。

死は終わりではないからだ。



私は進化の上にいる。

そう見なすと、いまは分からなくとも、いまは暗さを経験しても、振り返れば貴重で愉快なものであったと思えて嬉しくなってくる。だからせっかちな私は、先に感謝をし、先に喜んでおくのだ。

すべての出来事は、自分をより高く至らしめるために予め送られてきたプレゼントだとはよく耳にすることだが、このことを思い出しているかどうかが実践的なのかもしれない。

多次元の視点からみると、未来も過去も同時にある。

ある出来事が生じ、それに今握りしめている観念を適用して、苦しみのたうち回った末にやっと高次の認識に至ることで、それまでの観念を手放してから、あれは己を向上させる出来事だったと感謝するのは分かっているのだから、まだ何も起きる前から感謝しているのである。つまり、今感謝するとは、過去においては未来にあらかじめ感謝していることになるのである。こうしてわたしたちは時間の観念を超える。

人は自分の不都合なことが起きたとき、まずそれを起こした他人を裁く。それから、次に自分を裁く。

不都合なことを起こした他人をこらしめ排除しようとする。そして不都合なことを起こされた自分をこらしめ排除しようとする。

どれもこれも現象しか見ないから、尊厳死も蹂躙殺害も同じだととらえるのだ。不都合なことだとしかとらえられない。喜びや幸福をねたむ神を信じ、報復の神を信じているからであろう。

ああ、彼は、自分が生まれたこと自体が罪だと信じ込んでいるので、自分も他人の責めるしかできない。尊厳死には愛があって、蹂躙には彼と同じ怨嗟しかないのが観えないのだ。(蹂躙にも真の愛を求める愛の裏返しがあるかもしれない)

さんざん他人と自分を責めさいなんだ末に、やっと事の区別がついてくる。右往左往した結果、どうにか、愛というものに至る。

そうして、こんなことが起きているのは、まず自分が愛を忘れているからだ、と気づくのである。

だったら最初から愛でいよう。

愛なら、愛と不安の区別は容易につく。周波数のちがいが分かる。



つねひごろ、私は幸福で、感謝で生きている。内面に問いかけても、煙のように漂っている恨みや憎しみの雲を突き抜けて、幸せや感謝の温かな布団の中にいるのを確認する。もし恐れや不可解さが訪れたとしても、感謝と幸福の中にいて、それらを楽しんでいるのだ。

と書き列(つら)ねながら、私の表層には負の感情体が漂っている。

だが、もっと奥には、毅然とした己がしっかりとたたずんでもいる。それはいつも恍惚とした感謝の状態にある私自身である。

邪とか魔と呼ばれる周波数はある。しかし、じゃまなものはないのだ。

すべてが感謝するべき、神の贈り物だ。

愛を忘れた者を、私は愛しよう。