なんでも経験は、自分の内面で生じている。

外側に起きているのではない。

誰かと出会ったから、なにかに参加したから、ある事件に遭遇したから。

それと内面の経験は関係付けても構わないし、関係付けなくても構わない。

というより、私たちはもしかすると、いつでも耳をふさぎ、目をつぶり、出来事に対して自由に好みの意味をつけ、経験したいことが経験できるように都合の好い事柄同士を関連づけては、泣いたり笑ったりしているのかもしれない。


誰かと出会った。どこかに行った。何かが起きた。

それによって、内面のあるポイントにおける己の周波数が自覚されるということはある。

外は関係ないが、出会いや出来事によって、自分の内面がどの周波数を選んでいるかを知るのである。

今まであるポイントにおいて自分が、例えば『ド』の周波数を握っていたとする。これを440ヘルツとする。これによって、なにかひっかかる、なにか不具合だ、他のポイントに比べると暗い感じがする、という経験をしたとする。

たいてい、この周波数のことを観念とか信念とか概念といった言葉で表すことが多い。これはこういうものだ、こう反応しなければならない、と好きで思い込んでいる反応式を忘れ、機械的に感情や行動を選んで体験している。

だいたい観念とか信念とか概念とか、定義と言われるのは、すべてを含んだ周波数の中から一部を取り出している、言い方を換えれば制限付きの愛のことである。

外側に起きたことが、いかにもネガティブだと見えれば、他者や外側の事象について悪口を言い、低く見なし、自分の不幸を嘆くかもしれない。被害者意識と呼ばれる周波数だ。そして「なんでも、どうせオレが悪いんだ」と被害者意識の周波数で反省する。

これでは440ヘルツは変化しない。

思い切って1オクターブ上げる。880ヘルツを選ぶのだ。そうすると、これまで握りしめていた440は放れる。

まるで絶壁を登るクライマーのようだ。

上に登って行くには、より上のロープを握ってから体を引き上げてからそれまで握っていた手を放す。

そのようにして登って行くのだが、あることに気づいた時から、苦しんで上に登って行くことをしなくなるように思う。

つまり、どこも握らないということだ。

実は、地面から頂上までつながっているロープのあらゆる地点に自分がいることが見える。地上にいてこれから登ろうとしている自分も、すでに登頂している自分もすでに存在している。

そのどこに焦点を合わせるかに過ぎないのだ、とわかる。

すべてから手を放すことが、すべてとアクセスするとは、そういうことだ。

リスクを感じながら汗をたらして絶壁をよじのぼる経験がしたいなら、地面と頂上の間にいる自分に焦点を合わせるだろう。そして、これから登る自分への期待や興奮、または卑小さや意気地なさを経験したいなら、地面に立って上を見上げている自分に焦点を合わせるだろう。

そして頂上にいて景色を見渡す自分を経験したいなら、そこにいる自分に焦点を合わせるだろう。

やり始めはたじろいだが、困難に負けず、頂上を極めたということが至上の喜びと見なすなら、それに焦点を合わせるだろう。

たいていはこの世に転生した理由がそれなので、1から10までやりたくなるのかもしれない。


世の中は不公平だとぼやく人がある。

けれども、生まれつき金持ちの家に生まれる人は、初めから社会的な頂上あるいは有利な条件からスタートすることを選んだだけなのかもしれない。前の人生では、逆にどん底で例えばインドのカーストの最下層の経験をした人だったかもしれない。

生まれつきを超えて、いきなり頂上にいることはできる。

そのことは多くの人が見せてくれている。

自意識だけが問題なのだ。

自分がどんな意識の周波数に在るのか、それが自分の現実を創る。それに見合った周囲の状況をつくるには、時間差はあるかもしれない。

生まれに関係なく、自分は社会の頂上にいるのだと思えば、それに適した信念(周波数)をつかむだろう。社会の頂点にいる人がどんな周波数でいるかを学び、自分のものとするだろう。

社会の頂点で社会の頂点でいる人として振る舞っていることに文句を言う人がいることだろう。成金のくせして。あれは悪い、あんなやつがいるから世の中が悪くなるのだ、と。それは、もしかすると、440ヘルツの1オクターブ下の220ヘルツのドかもしれない。110ヘルツのドかもしれない。

220だと期待かもしれない。110だと嫉妬かもしれない。440だと憧れ、880だと同志かもしれない。

生まれに関係なく、自分は社会の底辺にいるのだと思えば、それに適した信念(周波数)をつかむだろうーー。同じことなのだ。意図して自覚してやれば、周囲に調和を創り出し、憧れの対象になるかもしれない。


自分がどの周波数を選んでいるかを知らずにやっていると、とてもとてもドラマチックに現実を体験できる。完全に忘れていた方がリアルだ。うすうすにでも気づいていると、しらけてしまう。テレビでやっているドラマは、まったく現実そのままを見せつけられているのだ、と本気で信じ込んでやらなければ本気で怒ったり泣いたりできない。あれは、誰かが脚本を書いて、役者が演じていて、演出家が指導しているなんて知らせようとする人がいたら、頭ごなしに全否定しなければ、楽しめないものなのだ。せっかく凡てを忘れてのめりこんでいるのに、わざわざ種明かしされては大きな御節介だ。

もし、そういう人に出会っても、やっぱり彼がやっているのと同じで、なにも聞かずなにも見ず、(というより、よく観察してどの周波数を選んでいるのか察知して、それに同調することなく)ただこちらの選んでいる周波数で表現していけばいいのかもしれない。

すべては、自分の内面で生じていることだけなのだが、他者との出会いや外側の事件が自分が内面でどんな周波数を選んでいるかを報せていると見なせば、それらがどんなに奇跡的で貴重なのかを思い知るだろう。