この十数年というもの、己の内面、特に信念や観念を見つめてきた。

自分がどのようにできているのか、なにがどう作用しているのか、

自己創造とはなんなのか、そんなことを25年くらい学んできた。

実行しながら、実行している自分を振り返り、書籍によって自分がなにをやっているのか確認し、より望む現実を創るとはどういうことか知ってきた。

けれども、そんな私が、いつもいつも、あのチャネリングで降りてくる宇宙人の集合意識のように高揚した気分ではいられないことに気がついた。

すべて自分が創り出した幻影で、外側に見えることは自分の内面の反映だと思ったとしても、やはり、天気や季節によっては物悲しかったり、うつろだったりする。

わけもなく陰鬱みたいな気分の時もある。

今朝も、目が覚めたとき、なんとなく気分がすぐれなかった。理由をいくつか考えた。そしてどれでもいいように思った。と、同時にこの気分をどうにかしたいと格闘し始めた。きっと、その裏には、いつも元気でいなければならないなんて観念がひそんでいるのかもしれない。そう思ってもやはりなんとなく穏やかでもない。

それで私は自分のハイヤーセルフにきいた。

このことについてたずねたことはなかった。「この気分をどうにかできないですか?」

するとかれは答えた。「ただ、今のその気分を感じてください」

聞いた通りわたしは気分を感じた。感じるまでもなく、すぐれない気分はなかった。

「これはどういうことですか?」

「気分とか感情というのはまぼろしなのです」とかれは答えた。

きっとこの気分や感情をつくっている観念なり信念というものがあるのだろう。けれども、わたしがその気分を感じようとした瞬間に消えたのだ。

「どうしてそうなるかわかりますか?」かれはたずねてきた。

「わかりません」

「その気分を感じようとしたもの、それがあなた自身だからです」
さすがに私のハイヤーセルフだ。「知りたいですか?」などといちいち間を持たせない。すぐに答えてくる。

気分をそのまま感じると消え、感じまいとすると長引くというかひきずるというか、感じたままだ。なんという可笑しなことなのか。

さらにわたしはすぐれない気分を感じた。

そうすると、そんな気分を創り出して自分のものだと感じていることがとてもありがたいことだと思えた。

自分自身ではない気分を創り出して感じていることが素晴らしいことなのだと知ったのだ。

もしかすると、自分自身というすべてからある部分に焦点をあてているだけなのかもしれない。

どちらにせよ、部分というものを感じていられることが愛おしいと思えた。

よしこれからは、「よし、いまから、思いっきり落ち込んでやるぞ!」くらいに思って落ち込むのを楽しもう、と思った。じっさい、そうしている人はたくさんいるし。