今日は、エネルギーの視点から観た人間関係、これは子供の教育にも通じることだと思うのですが、それについて述べましょう。
『夢から醒めた夢』という小説を書いている内に、だんだん自分の中に確信というか、認識の向上というか、まるであれらに出てくる宇宙人に自分がなったかのように、これまで模索してきたけれどもぼんやりしていたことが明晰になってきました。(12月1日と2日の間が、1日とは思えないほど長く感じていて、半年くらい経ったような感覚があります、なぜかその間に、これから書くことを知っていたのです)

結論から言えば、人間関係とは第3の人格を創り上げていくことなのだと思います。相手と他人との間にです。

聞いてみれば、なんだそんなこと知っていると思われるかもしれません。

そして私自身、青年時代から思い出したり忘れたりしながら断続的にやってきたことでしたし、ここ数年は意識していたことなのですが、これを意識とエネルギーという量子力学的な観点からみつめるとよく理解できました。

それでは、始めます。

まず、これには同意がいります。
私自身、生涯で、この人にだけは自分を教育させたくないという教師が一人だけいましたので、(もちろん、その方は反面教師としての威力を十分に発揮して頂きましたが)全員が全員に通用するとは思いません。

人間にはたくさんの側面があります。エゴ的側面、男性的側面、女性的側面、神的側面、動物的側面、肉体的側面、精神的側面、感情的側面、不安的側面、愛的側面、肉欲的側面、霊的側面、3次元的側面、5次元的側面・・・。まるで中国語のように思えてきました。

それは、高い波動とか低い波動とも言い換えることができると思います。

さらには、多次元的な存在と表現することもできるでしょう。

また、過去世の人格的側面、未来世の人格的側面。そういう側面も絡んでくることでしょう。

そういうことを思うと、人間とは実に多面性をもった、こうだと捉えどころのない闇雲な存在のようにも思えてきます。しかしたいていは、自分に認識できる、ある意識の次元で創られた現実だけを取り上げて『こいつはこういうやつだ』と一面的に決めつけ、それがまるで過去から継続して未来永劫つづくように捉えていたりします。もちろん、変えても変わらない、いわゆる個性というものはあるでしょう。性格ではなく個性は宇宙の始まりから終わりまで、ずっとあるのにちがいありません。どんなに観念や信念をなくしても存在しているその人格の特徴です。もし、それをとらまえているのなら、たいへん素敵なことだと思います。
しかし多くは、相手に自分の側面のひとつを観ている場合が多いように思います。それも、自分と同レベルの意識にあるその概念をです。たとえば、自分の好きなことをやって自由に楽に暮らしている人に対して、甘えている。よく聞きますね。それも、憎しみをこめて非難します。ということは裏返してみれば、羨望なのですが、かれはそんな批判をすることで、自分がそうなることを閉ざしている。閉ざしてまで、いまの自分の自覚なき自己選択を死守しようとしている。そこまで苦しまなければならないのか、と思ったりもするのですが、それもかれらの自己選択として尊重します。

つまり、たとえばAさんというのがいて、その人には非常に高い側面から低い側面まである。これを便宜上、1から1000までの数字で表すことにします。(次元で表現しても構いません)本人は、自分は500で在りたい、または在ると見なしている。ところが、自分を180くらいに置いているBさんがAさんをしゃにむに180だと見なしたとします。そうすると、Aさんの意識では『好きなことをやって自由に楽に暮らしている』とみえることが『甘えている』とみえるわけです。『ふらふら遊んでないでちゃんと働け』と。

このズレが葛藤を生じることがあるのです。もし葛藤を生じるなら、ふたりのレベルはすれ違わないほどに近いのかもしれません。もし、すれ違うほどに次元が(住む場所が)異なるなら、感謝しかないのかもしれません。暗さを表現してくれてありがとう、と。そして、そこにいるのにAさんはBさんには透明に映ることでしょう。精妙な波動になるから希薄に感じられるようになるのです。ところが、私は180じゃない。500だ。と怒り、500こそが正しい、と正義を主張し合えば、同じレベルに降りたと言えるかもしれないですね。500なら、どのレベルでも優劣がないことを認めているはずですから。

Bさんは、Aさんの180のレベルに意識を合わせているのです。ここが量子力学的なところですが、なにもない空間に意識を向けると、そこに物質(エネルギー)が創造される、このことが地球の科学でもわかってきていますね。(こういう言い方をすると、地球外生命体みたいですね)

Aさんは、同じことで、30年前はたとえば180の意識で現実を創造していた。20年前は300だった。10年前は230だった。5年前は400だった。去年は350で、さっきは500だったとします。それを見ているBさんは、どれが一体Aなんだ、と疑問に思う。私などは、迷わず500だ、と思う。いま、400になっても、すぐ500を超えるだろうと観る。ところがBさんはAの本性は30年前の180だ、と見るかもしれない。一番低いところをそいつだと決めていた方が安心だ、期待外れにならずにすむ、人間はそう簡単に変わらないと信じ込んでいる。同じことを繰り返すものだ、と。

せっかく多様な側面を持ち、高次の意識に自分の意識を焦点を合わせて生きたい、あるいは生きていると思っているAさんの180のレベルにだけBさんが焦点を合わせ続けたらどうなるか。

そこが肥大、増殖していくのです。その意識の部分がエネルギーを増していくのです。これは、相手の足を引っ張る行為かもしれません。伸ばしてもらいたくもないレベルや側面を太らせて重くしていかれると感じるかもしれない。もし、Aさんが、それに積極的に同意していたり、そのレベルにさえ到達していないなら、なんの葛藤も生じないどころか、Bさんに尊敬の念すらいだくにちがいありません。

ところが、Aさんが成長して500のレベルに意識を合わせていたら、どうでしょう。その次元の観方はBさんには理解できません。「なにを馬鹿みたいなことを言っているんだ。また妄想を始めて。あたまオカシイんじゃないのか? 思い込みがすぎるぞ」などとお説教を始めるかもしれません。「おまえは、おれと同じ180だ。高望みをするな。おまえ程度の人間が」と。

そうすると、Aさんは揺らぎ、500のレベルのエネルギーは拡大せず、まるでメタボリックのように180の意識がぶくぶくに太るかもしれない。そのちぐはぐな意識でBさんにものを言えば、伝わることも伝わらない。ハートに従って好きなことをしているのを例えば、「私は、魂のブループリントに従って、今世の使命を果たす」などと表現すれば、Bさんはますますわからない。「生まれる前に決めてきたことを実現する」と。

生まれる前、魂、ブループリント、ハート、今世、使命。これらの言葉は、Bさんにとって専門用語です。知らない者を煙に巻く言葉にしか映らないかもしれない。自分のやった失策を正当化したりごまかしたりしているように見えるかもしれない。

さて、この関係を逆転させないまでも、いちいち低次に引きずり込まれないには、むしろAさんはBさんの500のレベルに、あるいはまず200のレベルに焦点を合わせることになると思います。
悪く言えば『馬鹿』、良く言えば『大胆』という言い方がありますが、この良く言えばの方だけを選択して相手を観るのです。そうすると、これまでより高い意識が育ち始めるのではないでしょうか。もし、Bさんがそれを許し受け入れればの話ですが。

もし、育てば、それがBさんの新しい人格になります。その側面を多分にもった存在ということになります。しかしどうしても、Bさんが自分は180のままの経験を一生涯続けるのが今世でのブループリントだと決めていたり、異なる経験をするはずだったのを忘れていたままなら、これは揺さぶりをかけるまでしかできないのかもしれません。それくらい、本人の主体性や不可侵性は宇宙によって保証されているのです。物の本によれば、あの世では神様面している菩薩、観音のレベルの存在さえひとたび人間の肉をまとい、顕在意識優位のこの世に降り立てば、全員が全員がとこ目覚めるとは限らないとのこと。半分は、あの世に戻った時に後悔するのだそうです。

けれども、500に達した人は、500の観方をしていくしかない。500のように生きていくしかない。500の人に出会い、600の人から学ぶ。600になったら、600の観方をして600のように生き、600の人に出会い、700の人に学ぶ。ひとたび、上昇を自分に許可すれば、どんどん上昇していくしかないので、180に留まる努力をしている人とは疎遠になるかもしれない。すれちがい、理解されないかもしれない。それでも、もし近くにいるのなら、180でいる人(や社会)の選択を尊重し、高い部分に焦点をあてて交際することになるでしょう。相手が変わろうが変わるまいが。

この人と会うと、なにか自分が卑しく、下劣で、暗く、鬱屈した気分になる人と、逆に、この人と会うと自分が優雅で、素敵で、高潔で、楽しく、自由になった気分になる人がいますね。後者の印象を与える人というのは、相手の選択を認めた上で、その人の核心、高度な部分に意識を合わせる人なのかもしれません。

おそらく、高次元(4次元以上)にいる人とは、すべての次元の特徴や観方を認めた上で、そこが好きだから、例えば、5.5次元に焦点を合わせているのでしょう。3次元だけが、あるのは3次元だけ、他の次元はない、と分離、限定した物の見方を採用しているように観えます。

もし、3次元はダメなことろだ、なくしてしまえ、間違っている、愚劣で汚らしい、邪悪だ、などと定義し、3次元を否定して、そこから抜け出してどこか別のところ(次元)に行こうとするのなら、その人はまごうことなく3次元にいます。3次元も神聖さで創られていることを忘れているのでしょう。(この論法は、性や金銭についても当てはまります。抜け出すのではなく、あらゆるレベルを認めた上で、高次元に焦点を合わせた使い方をしていくのです)

好みで6次元にいる存在なら、自分が多次元的存在だということを知っていますから自分の一部(まさに一部)が3次元にも在ることを認めています。そしてそこに焦点を合わせることもあると知っています。『落ちる』ことを恐れてはいないでしょう。であるからこそ、6次元に在り続けていられるのです。(本当は、落ちたのではありません。眼を動かして、3次元に焦点を合わせたから、そこに移行したように錯覚しただけに思えます)

さて、これまで述べて来たことは、まるで相手の人格そのものを変化させたりさせなかったりしているかのように思えたかもしれません。けれども、実の所、相手を変化させているというより、AさんとBさんの間に創造してきたCさんについて説明してきたのです。

AさんはBさんをみているようで、CさんというAさんがBさんに育てた第3の人格をみていた。また、BさんはAさんそのものではなく、BさんがAさんに創造したCさんをみているのです。そして、Cさんは、同一人物のようで、BさんにとってはBさんによく似たAさん、AさんにとってはAさんによく似たBさんの色合いが強いでしょう。

AさんがみているBさんは、また別の人にはまったく異なってみえているかもしれないし、異なる側面をみせているかもしれない。つまり、Cさんは人間関係の数だけ存在し、ふたりのエネルギーを融合させたような人格なのです。なんらかの点で、互いにとって都合の良い第3の人格を創り上げているとも言えるかもしれません。この都合の良さは、人生の目的によるかもしれません。(人生の目的とは、在り方すなわち自分の合わせている意識の次元、物の観方、周波数の高さそのものだと思います)たとえば、自分を優位に立たせるために相手を悪く表現したり、逃げるためにののしったり、また逆に認めて欲しいからおだて上げて有頂天になった人格を創り上げるとか。愛と調和に進化しているから、進化する人にいざなうというのもあるでしょう。

ですから、私たちが相手をみるとき、実はCさんという第3の人格をみていると知っていた方が正確かもしれません。そしてその人は自分と相手の共同作業で創りあげてきた存在なのだ。

まず自分の、そして相手の意識のどの次元に焦点を合わせるか。そこのエネルギーが育てていくことを知っておく。もし好まないなら、ネガティブだと思える部分には焦点を合わせない。合わせれば、そこが増大する。暗い部分を直そうとすることでかえってそこを育ててしまうかもしれない。矯正が効果的でない理由はそういうことだろう。禁止が逆効果なのも、問題解決がすぐ横の問題を生み出してしまうのもそういうことだろう。(イタチごっこと言います)

個人も社会も同じことだ。どちらも意識が、その格や状態を創り出している。破壊したり、問題を改善しようとするより、高い意識で創られていることに焦点を合わせる人が多くなることで、そのエネルギーが増幅、拡大し、パワーをもつ。その意識が物理世界にも形として状況として実現される。このことは、問題を無視しろとか、知らぬが仏だと言っているのと等しくはないと思う。むしろ問題は正面から正眼で対峙し、ではどのような自分を望むか、社会を望むか、ということだ。

そしてAさんの創りあげたCさんは、Bさんに影響を与える。まるでプリズムのように。

Bさんの最も高い側面は、変化、自由、寛容、知恵、・・・などですから、そのエネルギーを拡大、増幅させれば、変化が生じ、速まるかもしれない。まず、Cさんをそういう人格として創造することで、Bさんに転写されていく。BさんはAさんの創りだしたCさんのようになっていく。・・・そうならない時は別として。

Aさんは、Bさんが少しでも高い方への変化をみてとったならすかさず、「素晴らしい」と心から言う。寛容さを示した時には、「ありがとう!」と喜ぶ。自由を認めた時には「なんて素敵なんでしょう」と微笑む。たとえば、こんなことを心がけることで、小さな変化を起こすかもしれない。そして、低い方やネガティブな言動や態度を取ったなら、それがもし高次に表現された概念なら、どういうことかと思い、つまり良く言えばの解釈を提示したり、理解を示したりするのも有効かもしれません。例えば、「ビール冷やしとけって言っていただろう!」などと旦那が言ったら、「ごめんなさい。夏の暑い中、家族や世界の継続と発展に貢献して頂いてありがとうございます。明日は、キンキンに冷やしておきますから。でも、2本目は、ほら、冷蔵庫の急速冷凍の部屋にコップと一緒に入れておくと冷たくなりますよ」と返す。それに対して期待する態度を期待せずに。

こうして、CさんというBさんの新しい設計図を描き、Bさんにプリントするのです。

実は、ぜんいん、今現在、誰でもこれをやりあっています。ずっとやり続けてきました。

意識してやるか、無意識にやるかのちがいです。そして、どのくらい高い意識でやるかの問題です。もし、高い意識で実行されているなら、見返りや期待、特定の結果を求めないでしょう。戦略なんて言葉も使わないでしょう。

ただ、やるのです。そういう在り方をしているからそうするのです。

なにも問題がないので、解決しようとすらしない。

自分の意識を、より高い意識に向ける意志があるだけ。私はそう思います。

そうしていると、自然な結果が生じてくるのではないでしょうか。睦み合うかもしれないし、別れるかもしれない。これも、エネルギーの観点からみると、当然の成り行きなのでしょう。

もし、AさんがBさんより高い次元に在るなら、悪影響は受けないのではないでしょうか。毅然として、高次の学びだけが生じてくるように思います。


今日は、エネルギーと人間関係について、いまちょっと思うことを書きました。