「では、次は膠原病ですが、これは、どなたか交代しますか?」
質問者は女性だったが、参加者同士でめくばせした末に、さっきまで被験者だった男性がもういちどベッドに横になることになった。
「ここが、骨と肉の間の膜になにかを表現している観念です」
科学者がスティックで指し示した。膠原病についての知識がわたしにはゼロだった。横で、医者が補足してくれた。
「みなさんは体内の膜に生じる炎症や異常を膠原病と総称しているようですが、リウマチはその病気のひとつとされています。関節や筋肉の痛みとして自覚され、ひどくなると手足や指が歪曲します。地球ではまだ原因が解明されておらず、なぜ治るのか、食餌的にも、いわゆるスピリチュアル的にもわかっていない難病です」
耳元でささやくような話し方だった。(声がでているわけではなかったが)
「そんな病気を治せるのですか?」
「肉体の造形にまで表現された病気でも、宇宙が許せば元に戻せます。しかしそのような表現をし続けることがその人の道ならば、戻せません。その経験を経なければ次にいけないとその人が設定しているなら、更新しようと思うまでいわゆる改善にはむかいません。徐々に治っていくものだと信じていれば段階的に改善していきます。地球では、まったく的外れなところに原因を求めて、それを抑えることを治療と呼んでいます」
「本当は、どこに原因があるのですか?」
わたしは聞いたが医者は答えなかった。
「それでは、まず150にしてみます」
科学者が言った。
この一連のやりとりは、まるで医者が説明した後に科学者が証明しているように思えるかもしれないが、わたしの正直な経験から言えば、同時に起きていた。医者の説明を聞きながら、科学者の証明も見ている。強いて言えば、同じ画面に、本文とその他の情報がいっぺんに貼り付けられているような状態だ。そしてこのことは、あらゆるところで起きている。たとえばこの講義ですら、10回目ではなかったのだ。実は、すでに9回の講義を終えている。現在完了形で終了しているのだ。しかし、今、第6回の講義を受けている。『ヒーリング』は第6回目だったのである。すでに終わった事をいま経験しているというわけだ。ここではそういた矛盾が矛盾でなくおきる。しかも私は、ここにいる他の人たちとは同時に参加していないかもしれない。ここでは、彼らがすでに受けたリアリティに後から私が挿入されているのに、あたかも同時に受講しているかのようなリアリティをつくりだすことが可能のようだ。わたし以外にもそういう人がいたにちがいない。けれども、途中から参加してきた人がまるで初めからいたように辻褄が合うのである。なんとなく違和感を感じていたのはそういうことなのだ。にもかかわらず、すでに参加し終えた人と会話が成立する上に、互いにその記憶を共有しているのである。
「はいでは、どんな感じがしますか?」科学者がたずねた。
「痛いです。ふしぶしが、ちくちく、ずきずきします」
「なにか思うことはありますか」
「はい。私は生まれつき片足が弱くて、いつもみんなとはちがう立場に置かれていました」
よく見ると、この人は右脚がひとまわりほど細かった。
「劣っているという感じが強いです。幼稚園の時も小学生の時も、いつも弱い者として同情を受けて生きてきました。だから、他人の弱さには敏感でした。へりくだったような気を遣い、心底同情します。自分の死んだあとのことまで、じゅうぶんな準備をしていなければ死ねないとさえ思っています。いつも自分は特別な立場に身を置いて、あわれみの念を受けてきました。そのように仕向けてきたのかもしれません。諍いが嫌いだったからです。けれどそのかわり、人と本当の感情をぶつけあったことがないんです。本音とふれあったことがないのです。障害者の認定を受けてから、ますます特別扱いを受けることになりました。特別が、レッテルによって確定したように思います。隔たりがあります。人と人の間に越え難い憤りがあります。胸に甘ったるいものを感じます。他人の気持ちに無頓着な人が許せません。その反動でしょうか、私は他人に過剰なお節介を焼いてしまいます。ーー自分に厳しくありたい。だからでしょうか、甘い他人に厳しさを要求して怒りながらも、半端な所で妥協もします。そんな自分が嫌いです。これが自分だと認めたくありません。自分を責めさいなむ癖があるんです。いつも自分で自分を攻撃しています。そうしていながら自分を憐れんでいます」
「では、もっと下げてみます」
科学者がパネルに触れると数値が85になった。
「体は、どんな感じですか?」
「なんだか自分がミイラになったような気がします。ガチガチにこわばった骨と肉をぎーぎー言わせながら、やっとこさ動かしているようです。動かす度に、自分がむりをして動かしていることを実感します。痛みをこらえて仕事を頑張るのが私です。なのに店がうまくいきません。こんなに頑張っているのに、売り上げは下がる一方で、家族もアトピーや脳梗塞など持病持ちです。みな暗い顔をしています。息子が事故で死にました。うまくいかないので、もっと正しく、もっとまっすぐにと固く固く決心しています。ーーい、痛い。関節の骨をペンチでぐいぐいはさまれたような痛みです。ううう。指が、指が曲がってきました」
見ると、両手両足の指や甲さえもソーセージくらいの湾曲をしていた。
「まっすぐありたいんです。正しい行ないをしなくては善い事が起きないと思います。だからでしょうか、四角四面な考え方をしてしまいます。ちいさな箱にとじこもっているような気がしています。許せない。曲がったことが許せない。まっすぐになりたい。まっすぐに・・・」
なんだか、この人の中では、一生懸命に自分をまっすぐで正しい考えに固定しようとしているような痛々しい努力をしているように思えた。そして、なぜか女性的な雰囲気を感じた。
「まっすぐになりたい! なりたい! なる、なる。いや、もうなっている!」
涙ながらに、被験者が決意を述べた。いましている自己選択を宣言しているというより、熱心に自分に言い聞かせたり、思い込もうとしているように見えた。わたしはそっとパネルに目をやった。数値には全く変化がなかった。それどころか、微減した。ただ、そこに『いる』のと、なっていると思い込もうとしているのは格段のちがいがあるのだな、と思った。思い込もうとする行為、これは恐れによる抵抗なのかもしれない。
総じて、いまのこの人は何事も頑張るのみで、知性というものをほとんど感じられなかった。参加者の間には、悲痛な雰囲気が流れた。
「ちょっと、笑ってください」科学者が言った。
アハ、アハ、アハハハ、ワハハハ・・・。次第に陽気な笑いになっていった。するとどうだろう。数値が跳ね上がった。いっきに、160くらいになったと思う。けれど、笑いをやめてしばらくすると、数値は80いくつに戻った。
「なぜだかわかりますか?」科学者が聞いた。
「わかりません・・・。笑うと健康によいとは聞きますが」
「笑うと、理性的な思考が中断されるのです。笑っている間に、物を考えますか?」
「言われてみると・・・。げびた笑いとか、卑屈な笑いとか蔑笑のときは、その笑いをさせているなにがしかの観念がべたっとくっついているかんじですが、最高に楽しかったときを思い出して大笑いしている時や、あまりにとつぜんに、思わず笑ったときなどは、笑っている状態だけですね。考えていません」
「つまり観念の影響をさほど受けず、本来の自分のままになっているといことですか?」
「ええ。たぶん、そうだと思います」
「わたしたちは、あなたがたが、なにも考えずに笑っている状態にいつもあるのです。ですから、特に、笑いません」と言って、科学者がふっと笑ったように見えた。
「宇宙人は物を考えないのですか?」
「考えません。ただ観察しているだけです。波動がどうなっているかを観じて、自分の本来の姿である諸元の波動で在るように最善を選択しているのです。そして、考えます。みなさんから、わたしたちがどのように見えるかを知るためです。わかりますか?」
「わかりません」
「あなたがたが主にエゴによって創り出した観念や感情を通して見ると、わたしたちの在り方や選択がどのように映るか、それをそちらからの視点で見るということです。それが考えるということです。それを通して、猜疑や無関心、判断、曲解がどのようなものをか学習するのです。あなたがたが、いかに自分自身を過去に固定しようとし、またどのような真実を持っているかを知るということです」
「それはつまり」参加者が言った。「自分たちにとっては真実だとしか思えないことも、他人から見たら奇異に映るよね、などと客観的に自分を見ているということですか?」
「似ていますが、ちがいます」と科学者は答えた。「あなたがたは、エゴで創り出した観念で個人の現実を創り出しておきながら、さらにそれを、もうひとつ別の個人のエゴで創り出した観念で自分の現実を判断していることが多いですね」
「あ!」
とその人は言った。参加者が理解したのを見て取った科学者が言った。
「思考をすることで、どのような方法であれば、あなたがたが本来の姿を思い出していただけるかの最善を学ぶのです」
つまり、考えることで、考えないことをさらによく知ったということなのだろう。
「それでは、元にもどします」
数値は420くらいだったと思う。
膠原病についての証明だったが、出てきた信念や観念がすべての人に当てはまるのかはわからない。きっと、もしこの被験者がリウマチになるとしたら、こういうこじつけを通して発症するということなのだろう。
「どう思いますか?」
「そうですねえ、片足はたしかに弱かったけど、こう言っては語弊がありますが、全くない人だっているのだから、そんなことでくじけたり、憐れみをかけてもらうのはおかしいと思います。あるものを伸ばせばいいと思っております。歩くのにもさほど問題がないし、全く気になりません。むしろこのお陰で、本当に心の優しい家内と知り合うことができましてね。うまくやっております」
わたしはもう一度打ちのめされた気がした。自分でも経験したことではあるが、同じことに対してそれをどう定義するかどうかで、発病したり、人生が好転したりする。これはなんだ? どういうわけなのだ。
医者が被験者に言った。
「あなたは、脚の太さをそろえることができますが、どうされますか?」
「いや。いいです」
「いいということは、そろえるということですか?」
「いいえ。このままにしておいて下さい」被験者が言った。「この脚の方が謙虚でいられますから」
「はい。わかりました」
医者はそう言って科学者の方を向いた。科学者が言った。
「この方は、脚の不具合を上手に使っておられます。つまり、この不揃いの脚は欠陥ではなく、最上の気づきをもたらす差異だと定義しておられるのです」
差異を劣等感と結びつけるのではなく、おのれの中心に素直に問い掛けるのに使っているということか。謙虚とは、そういうことだから。胃に関しては、あまりに自分自身のパーソナリティを表現するのに使っていたから、謙虚であっても自分では気づきにくかったのかもしれないと思った。
それにしてもこの人は、ここでベッドに横になっていただけだ。それなのに、ただ周波数を変えただけで、人生での出会いや体験まで別のものになってしまっている。しかもまるで、自分がたどってきたことのように実感をもって語った。なにか催眠術でもかけて、そう信じさせているのだろうか。いや、こんなことを疑っていては、いつまでたっても真理というものを認めることはできない。
疑っているーー。また、この言葉が出てきた。いままで、わたしは自分の意識をうまくとらえて上手に言葉になおして得意になっていたのであるが、どうも、分離を表現するのが得意な『言葉』で、高次のことを表現するもどかしさを感じ始めた。
しかし、観念を変えると健康具合が変わるのは納得がいくとしても、運命や人生まで変わってしまうのはどういうことか、という疑問がわいた。それに答えるかのように科学者が言った。
「状況もボディのひとつなのです。肉体のさらに外側のボディと言えるのです」
