「これは、マインドコントロールの装置ですか?」
「いわば、そういうものです」

「この振動数ではこう考えるものだと決まっているものなのですか?」
「決まってはいません。あなた独自の表現をされたはずですよ」
「表現は独自かもしれませんが、感じていることが、みな同じなのですか?」
「たとえば、あなたが、30℃のお風呂に入ったとします。すぐ横にいる方と同じお湯につかっているのですが、彼のつかっているお湯とあなたがつかっているお湯は異なります。まったく同じところというのはありません。宇宙には、どんな位置にも個性があるのです。まったく同じように見えるところでも必ずちがっています。もし、同じ条件にしようとして、あなたが彼のいた所に移動しても、すでにさっきとは異なっています。彼がそこにいましたし、あなたが来たからです。さらに、ひとりひとり30℃のお湯にたいする感じ方も異なっています。だれ一人として同じ人はいないからです。従って、まったく同じ、ロボットのような結論を出すことはありえません。厳密にいえば、微細な問題になればなるほど、対照実験などというものは不可能なのです。それでも、ある周波数を経験した人は、同じようなことを感じ、同じような表現はなさるでしょう。しかし、まったく同じということはないのです。けれどもたとえば、10℃のお湯につかった時と30℃のお湯につかった時では、相対的な印象は同じでしょう。冷たい所から温かい所に移った、と」
はぐらかされたような気がしないでもなかった。
より善い信念を持つように勧める人に会うと、反射的に、みな同じ考えじゃつまらないだろう、みながロボットになってはおもしろくない、といった考えを表明する人がいる。そうして、彼オリジナルだというありきたりの嘆きの人生に固執している。十人並みの卑屈な自己像をつかんで放さない。そういう人の自己主張より、この科学者の説明の方が好きだと思った。
「いまのあなががたは、社会の産物なのです。社会があなたがたに持たせたい観念を身につけて、社会がさせたい意識の状態になっているのです。社会にコントロールされた生き物なのです。まるであなたがたにコントロールされている細胞一個一個のように、なっています。そのコントロールしている大本がより高い、あなたがたの真の姿を機能させる信念で運営されているなら、身を委ねても構わないでしょう。しかし、人生の途中で早々と腐ったり、あきらめなければならないような観念ならどうでしょう。どうして、そんな集合的信念をお創りになっているのですか?」
この社会的信念のコントロールについては、わたしが不参加だった第三回の講義ですこし触れたらしい。
「社会は個人の総和を超えたものではなかったのですか。それを負の方面に証明しても、正の方に証明しても同じことなのです。みなさんが望むといっている在り方の方が、現在よりもっと楽に証明することができるでしょう。社会を個人の総和以上の産物にすることができないと思っているのですか? みなさんは、ある側面においては、すでに、個人以上の社会的機能を作り出しています。たとえば大量生産やロジスティック、マス・メディア、コンビニエンスストアなどがそうです。けれども、富や幸福、愛という最も望む側面においては、まったく逆の社会を作り出しています。1+1+1+1+1+1=6でさえなく、0.3くらいになっていますね。いいですか、本当の社会の足し算とは、1+1+1+1+1+1=無限大なのです。わかりますか?」
「自分で自分をマインドコントロールした方が賢明だと?」参加者のひとりが聞いた。
「そう望まれているのではないですか?」 
「でも、なにが善いのかわからないじゃないですか」別の参加者が言った。
「それは、ハートに聞くということを思い出さなければなりません。言っておきますが、これは義務ではありません。あなたがたが望むなら、することです」
「ハートに聞くと言ったって、どうしたらいいかわからないですよね」また別の参加者が言った。
「みなさんは、なにが善いかわからない。という観念を社会的に共有しています。そして、ハートではなく、頭脳を、それもある特定の部位だけを使うことが善いことだという観念も共有しています。ハートには、なにもない。思考するのは、唯一脳だけだ、そういう考えも社会的に信念化しています。いいですか、細胞のひとつひとつ、DNAの一本一本、胃や心臓などの器官、すべてが意識をもってそれぞれ思考しているのだとしたら、どうします。どのように考えを変えますか?」
おそらく人間社会において、こんなことを真顔で言ったなら、場が白け、冷ややかな嘲笑が起きるだろう。参加者にはそういう考え方があるのを知っているような素振りをする人もあったが、誰もなにも言わなかった。それで科学者の方が質問した。
「善いとはなんですか? 善いの定義はどういうものですか?」
「えーっと、物の本によれば、目的を機能させるということです」参加者のひとりが答えた。
「そうです。あなたは、哲学者ですか?」
「いいえ。でも、勉強はしています」
「なにが善いか、あなたがたの目的は、なんですか?」
「わかりません」
「わからない? それがわからなければ、なにが善いかもわかりませんね。しかし安心してください。目的はありません。ですから、善いということもありません。善いということはあなたがたが目的を決めたときに発生することです。あなたがたが社会的に決めている目的をリーディングしますと、それは不安と恐れです。ですから、あなたがたは安心と安全を求めます。わかりますね?」
「私たちは不安と恐れを機能させることばかりやっているということですか?」
「ちがいますか?」
「そうかもしれません。なにが善いか解らないから、とりあえずみんなの考えるように考えておこう。そう考えます。自分ではそうは思わないが、仕方がない。そうあきらめています。そして陰でみんなの悪口を言います。責任のがれかもしれません」
「ハートに聞くには、なにもすることはありません。すでにそうしている自分に気づくだけです。ハートのあたりには、あなたがたの個別意識の中心、相手の波動を感じ取るセンサーの最も敏感な部分があるのです。感じている自分を否定せず認めてあげてください。そうすれば自ずと相手が、あるいは自分がどのような周波数か分かります。分かったことを基になにが自分のあるいは自分たちの望む、たとえば調和の取れた社会にとって役に立つか、それを実現していく。ある行動に統制して秩序を求めるのではなく、愛と調和をそのまま表現した個人、社会。その方が自ずと安全が高まるのです。ハートは本当の自分、すなわち愛を感じ取るセンサーです。どの程度の愛なのかを感度が高まるほど精確に感じ取るでしょう。ハイヤーセルフと言われているあなたの意識の最も創造的な部分を感じるのもここです。ハートを使うことを思い出しますか? そして慣れますか?」
これに関してはもう、否定し続けるか、感じている自分を認めるかしか選択肢はないだろうと思った。わたしに彼らの提唱する新しい見方が浸透し始めているのを見て取ったのか、科学者はちょっと微笑んだ。そして参加者全員に向かって言った。
「あなたがたは、自分が一度持った信念や観念は一生変わらないものだ。という信念をもっています。けれども、あなたがたが観念をどこに取り付けられているかご存知ですか」
参加者全員が首を横に振った。
「それはたとえて言うなら、大海原の上に舟を浮かべて、固定したと思い込んでいるようなものです。その舟がいつまでも同じ所にあるとお思いですか? 観念とはいわば、おおきな、流動している意識の上に置かれた枠だと想像してください。変化をとめることはできないのです。簡単に変化するというより、変化しないわけにはいかないのです。それゆえにみなさんが思い出さなくてはならないのは、変え方ではなく、どう変えるかなのです。同じ次元で舟をさまよわせますか? それとも、より高い次元に、より大きな船で航行することを選びますか?」
この人たちは決して、どうしなさいとは言わない。これはこうなっています、もしそうだということを認めるなら、何を選びますか? どういう自分でいることを選びますか? と問い掛けるまでだ。問い掛けられたわたしは、まだ彼らの言っていることを使い切ってはいないだろう。いや、その前にどの程度の理解をしていることか。
ともかくわたしは、父親の乾癬にまつわる疑似体験をしたのであるが、それをもって彼自身が70年も信じ続けてきた自己像を簡単に変えるだろうかとも思った。しかし定年を過ぎてヒマになった父は、いま死を目前にひかえて、自分の根となっていた信念と対峙する機会を得ている最中とも言えるだろう。乾癬がそれをつくってくれている。
科学者は参加者の方を向いてきいた。
「では、次は膠原病ですが、どなたか交代しますか?」