リミッターを外す。

外して、MAXのボリュームを拡大したところにつけ直す。

わたしたちがつけている制限はむしろ、MAX側ではないかと思う。

それも、ちんまりしたところにつけて、それ以上にはならないように固定してしまっている。

いっそのこと、とっぱらってしまいたいところだが、それもまた危険なことでもある。徐々になれていくのがよいかと思う。

なんのレンジの話しかといえば、

『無制限の愛』である。

はい、今日は大量の文章ですが、分けません。ノンストップ一気にいきます。

行が進むにつれて、読者はどんどんずり落ちていき、

おそらく、最後まで読み切る人は、百人に1人。さらに正確に理解し、ここがちょっと拙いとか、もっと詳しく言えるはずなどと批評できるのは、千人に1人。しかし実践している人は逆に100万人くらいいるかもしれない。

無意識にもこのメカニズムを使って素敵な状況や健康、幸福を享受しているのだろう。けれども、メカニズムをよくわかって、道具として使えば、負の連鎖、災いの渦、ネガティブな創造にひきずられることはないだろう。予想を超える現実を経験するかもしれない。

しかしこの文章は心臓破りの丘と同じだ。心の筋力を要する。

どこまでついてこられるか。エッセイのサーキットである。

まず、言っておくのは、わたしは幸福で健康で、24時間、自分の好きなように時間を使っている。お金にも困っていない。家族も円満だ。近所とのつき合いも良好で、親との関係もありがたいかぎりだ。しかもどんどんそれがおおきく、そしてエキサイティングになっている。これまで、すばらしい人たちと出会い、すばらしい人生を歩んできたと自負している。

さて、本題。

ある程度に自分の次元(波動)が上昇すると、自分に起きたことはすべて、『無制限の愛』であったことがわかる。

過去に起きたあのことも、このことも、すべて、自分が進化するのに完璧で最高の贈り物だったと普通に思えるようになる。(霊性の進化が善いことではないが、結局は全員それを選ぶだろうと思う。どうも、それしかやることがないようだ)自分自身にそれを証言することができる。

わたしには、ひごろのおこないが善いから悪いからそれが起きたとか、前にとても嬉しいことがあったから、今度はイヤなことが順番に起きたのだ、とか、そんなふうには見えず、その時点では完璧で最高のことしか起きていないとみえるのである。それ以外の選択がなかったのかように。

自分で自分の思いを外界に完全に創り出し、それをどう見なし、どう使うか、完全に自由に選ばせていたのだ。

そうとしか見なせなくなった。

状況や結果や健康具合など。すべてにおいてである。

これは、宇宙の法則を知り、創造性を使って望む現実を創ってきたからである。

いま、という視点を得たのが自分の現実をコントロールするポイントだったと思う。

因果律を知って、もし過去に視点をおけば、現在起きてくることの意味がすでに付着していることになる。そのような観念を使って現在の出来事に既成の意味を与えれば、つねに過去に追い立てられることになり、自分で自分の現実をコントロールしにくくなる。
しかもこれが、いったいいつやったことの結果なのか、判別することなどできないので非常にやっかいだ。しかも死ぬまで自分がやったことの善悪を裁定できないのだとすれば、なにをやればよいのかまったく迷ってしまう。
善因善果などというが、善など、いくらでも誰かの都合によってあるいは地域によって時代によって変わることくらい、誰でも知っている。そうすると、なにもしないのが一番善いという結論に至る。自分がやったことが善いのか悪いのか、生きている間に人間はだれも正確無比に裁定することができないのだから、なにかをやることに恐れひるむことになる。そうすると、なにもせず、他人のやっていることに悪口を言ったり無関心でいたりするという行動をとるようになるのではないのか。嫌々ながらみんなと同じ行動をとっているふりをして、はみ出す者が出てくれば、それきたとばかりに文句を言い募り始めるのである。

また、善い事と悪い事が半々に起きて、人生トータルでちゃらになるとみれば、悪い事は経験したくないから善い事が起きないように操作するかもしれない。

わたしが4,5歳のころ、いつも仏頂面した仏教徒の曾祖母ちゃんからカルマという考えを聞いたとき、とても厭な思いをしたのを思い出した。

善い事をさせようという意図があったのかもしれないが、過去や過去世の行動の結果がいつも眼前に現れるなら、そしてその償いばかりしなければならないのなら、僕はいったい、いつ、未来の善い結果をつくるためのことをしたらいいのだろう? 僕がそう言うと、祖母ちゃんは珍しく怒りだし、言いよどんだ。そして口をつぐんだ。しばらくすると今度はお寺から地獄絵巻を借りてきて見せた。それでも僕は、そんな考えは真理ではないと知っていた。

また、わたしの両親は30年間夫婦喧嘩をしつづけた。

特にわたしが中学時代は、熾烈さを極め、過去のあのことば、あの行動、あの決めつけ、それらを引き合いに出して相手をなじり、泣き、わめき、殴り合い、自分たちの仲たがいした原因をますます過去にさかのぼって追及したのである。毎日毎日、ひごとに長時間化し、日をまたいで深夜にまでおこなわれる喧嘩を日課にしている両親を見るにつけ、この過去に規定された現在の意味というものが、現在はおろか過去も未来も台なしにしているのではないか。とさとったものである。

いま、持っている信念こそが、すべてを創っている。

いま持っている信念をかえるには、出来事に予め意味をつけない。予め意味をつけない、ということが、恐れや不和をなくす最初で最後ではないか、と思うに至ったのである。こうなりたいと望む意味をつけるだけですむ。過去はどうであれ、いま自分が望むようになるのだ。

視点はあくまでいまであり、いま、すべてに意味をつけることによって、過去の現実にたいする経験を変えるのだ。意味は、信念や観念がつくりだしている。したがって、いくらでも意味は付け直すことができる。つまり、起きた出来事には意味が無いということを認めることが、創造性の発露を容易にさせるのではないか。

これはたとえば、受験に関しても言えた。この高校に入ったから、過去の成績がどうだからと、過去の結果や他人の残したデータを自分と完全に関係づけて現在と未来の意味をつけない。限界を勝手に決めないということだ。ここに行く。ただ、それだけのことだ。わたしは当時、500人いた生徒の中で、毎年、特別進学クラスからだけほんの2,3人の国立大学合格を出す高校にいたが、おちこぼれクラスから、後にも先にもわたしだけ、進学クラスの生徒よりも偏差値の高い国立大学に合格した。ネガティブな観念をすべて払拭していたわけではない。しかし、いまという視点を持つことで自信を取り戻し、創造性を使い、周囲の予想を裏切って、はっきりした形で望む現実を創った初めての経験だった。

話しはもどるが、母はあるときから、それまでの劣勢をはねかえし、父のかつての行ないを攻め始めた。過去の過去の過去にさかのぼった挙げ句、あれは私が悪かったのではない。あなたの物の見方すなわち信念が悪かったんだ。と責め立てていた。それが変わらない限り、仲直りもできないし、これから何事も好転しない。と主張していた。実は互いに、自分の観るべき信念の反対側を相手に見いだしていたにすぎないのであった。正しいとして握りしめていて、それがゆえに機能不全を起こしていた信念である。それがなにか、互いにヒントを出し合っていたのに、答えを出すどころか、ヒントを潰し合っていたのである。

うまくいかないことの原因を相手に求め、それをとがめて謝らせ、なくそう、矯正しようとする。それでもうまくいかないと、謝り方が悪い、本気で謝れと言い募り、責め立てることが目的となっていった。父がなんど手をついて謝っても、次々に謝らせたいことが出てくる。それがぜんぶ済むまでは、自分の憤怒はおさまらない。自分はなにも変わっていないのだから、またなにか思い出してとがめるのである。

この不甲斐ない激しい葛藤は、わたしの高校不合格をもって、いちおうの終焉を遂げた。しかし水面下ではくすぶりつづけ、母は鬱病、癲癇、自殺未遂、失踪など、なかなか大胆なことをやり続けた。

わたしがまだ小学校に上がる前のことだ、夕方からふたりは言い合いしていた。

家に入ってきた僕をみとめると、ふたりは口々に言った。「おまえのせいで喧嘩してるんだ」ひとり3回ずつそう言うと、その場は終わった。

僕はふたりをじっとみた。僕のせいで喧嘩してるんだって? なんて、光栄なことだ。僕の存在はこのひとたちに喧嘩をさせるんだ。そう思った。

そして、どんな信念がどんな感情を引き起こし、それが葛藤を生んだのかをみた。

母は『親は犠牲になって子供を育てるべきだ』であった。

父は『自由さが子供のせいで縛られ犠牲になる』であった。

なるほど、と思った。

そしてついでに、こうやって第3者を共通の敵にすることで、自分たちの仲を保つのだ、と思った。そして、子供を敵にすることで自分たちの仲が良いなら、それは子供のためになる、と考えているのだな、と。

それで僕はかれらの喧嘩に干渉しなかった。ところが中学も終わりに近づいたころ、僕は彼らの見なすかよわい子供でなくなった。それで、喧嘩を永続させるのに、別の信念を持ち出さなくてはならなくなったのだ。

それが、いまの現状は過去のおこないの結果だ、という信念だったというわけだ。

かれらは一生懸命努力して仲良くなろうとしていた。努力が足りないから仲が悪いのだと信じていたものと思われる。

家庭をもったわたしは、家族のおのおのが好きなことをし、それでいながら調和をもっていくという状態を保っている。家事はやれる者がやれる時にやる。手のかかることは協力してやる。気がついたことはやる。などという行動指針があり、ひとりも役割分担の犠牲者はいないのである。なんの努力もしていない。なにかうまくいかないことがあったら、じっとおのれを見つめ、ぱっと手放し、別の信念、観方を取り入れるのを旨としている。実際には、うまく機能させる考えに行き当たったら、ぱっと手放すのだ。(ぱっと手放せないこともある。期間がかかることもある。でも、理解がおのれに生じるまで丹念に待つ)

ともかく、わたしは因果律という宇宙の法則に飲まれ囚われるのではなく、それを使って望む現実を創造するという発想にまで昇華させるのが明るくて好きだ。

そんな考えがある程度の高みに至った時、わたしは母にそれらを教え始めた。おさないころから、どうにかしてやりたいという気持ちがあった。地獄から救い出したい、と。初めはいかって反発していた母も、もう不仲にはあきあきしていたのであろう。すこしずつ耳を傾けだした。それから遅れること5年、彼女に影響された父が変わった。いまでは、喧嘩どころか笑いがある。

犠牲という信念を、おのおのが独自な存在でありかつ相互依存している、にかえただけだと思う。人間関係とは初めからそういうものだと認めただけだと思う。

中野孝次さんという人は『清貧の思想』で有名であるが、彼は自分の半生を、自伝的小説として十年ごとに書き直されている。同じ出来事、事件は同じように出てくるが、作者が歳を経て変化するから、それに対する見え方が変化しているようにわたしは読んだ。

信念が変わり観方が変化すると、同じ出来事に対する反応や感情が変わっているのである。つまり、経験が変わるのだ。小説とはある観方、ある経験の仕方なのだとよくわかる。

その時起きたことは、その時点では完璧で最高のことだった。とそう見えてくるまでには、『無制限の愛』だったにちがいない、と信じる。とか、『無制限の愛』だったことにしておこうという観念によってそう定義するかもしれない。まずはそのへんから始めた方が安全だろうと思う。いつでも火事場の馬鹿力を発揮していれば、肉体は胡散霧散してしまうだろうから。             

わたしたちは、定義、観念、信念によって現実を創り、またそれを経験している。

思考の中にある固いという観念を使って、定義、観念、信念を持ち、それが現実を創り、また、経験さえさせているということだ。

このことは、他人を観察したときに容易にわかるだろう。

嘆いているそのことは、ぜんぶ自業自得に見える。自分勝手な意味をつけているように見える。最初から最後まで、おまえが思い込んでいることじゃないか、と陰で笑っていられるのである。

ところが、自分においては、自分の創り出している現実こそ自然で当然でなんの疑いもないものだから、自分の不幸や不遇、イライラは他者によってもたらされているとしか見えないのである。

そこで、相手や社会や過去を変えたいと夢想し始める。

そして早晩さとる。

相手がその気にならなければ、変わらない、と。

その諦観を自分自身に向けさえすればいいのだが、私は正義であるという観念がその視点をブロックしていたりする。

とうぜん正しいのだ。自分の信念によって創り出した現実は自分にとって正しいし、まったく機能している。

そしてまた、他人を変えるところから始めて、ぐるぐるその渦を回る。

過去や現在の経験には、もう飽きた。この渦に回るのは、もううんざりだ。もっとすっきりニコやかに楽々な人生に変わりたいと思ったとき、どうするのか。あるいは、現状に不満はないが、もっとこうなるのを望む、という時。因果律を使って自己実現するのである。

現実にたいする定義、観念、信念を変えることで、まず経験が変わる。これも受け入れ、慣れていくのに多少期間を要するかもしれない。しかしこの時、苦労しなくてはならないと考えるのは、そういう観念をにぎっているのに気づいていないからである。ただ、当てる焦点を移動させるだけで十分なのだ。これを指していたのをあれを指すのに変えるだけだ。おそらくより高次で軽いものに変えるのを望むことだろう。そうして、指しているあれをここに持ってくる。足元だ。もってきたのは、意識である。それで自分を包む。自分の中にあるすべての意識の中で、これだと選んだある周波数の意識そのものになる。その意識が発想する定義、観念、信念を自分のものとする。これが自分なりに『無制限の愛』になったという状態だとする。

この時、どうしても自分なりに『無制限の愛』が認められないなら、なにか強烈にひっかかっている観念があるのではないか。ここを辿っていく。『人生とは苦労の連続だ』などという信念に行き当たるかもしれない。そしたら、どうしてそう信じているのかをみる。なんのことはない。自分の経験からというより、幼い時から親がくりかえしていた呪文を信じていただけだ。それが根拠だと気づく。どうしても握りしめていなくてはならないことでもなかったと認めると、とりあえず脇に置いておける。握りたければまた握ればよいことだ。

『人生は、ときどきすばらしい事がおきる』

たとえば、そんな観方を替わりに握る。

そうすると、不思議なことに、苦労の連続だと見えていた人生が、ああ、あれはすばらしかった、あの時はよかった、と見えてくる。

そういえば一時期、パートに出かけた会社のポリシーに感化され、喜んで仕事をしている時には、嬉しいことがよく起きていたな、と振り返る。

そうすると、自分の握っている定義、観念、信念が、そのような経験をするのにふさわしい現実さえも創り出していることに気づくだろう。選んだ意識が定義、観念、信念を通して思考、言葉、行動を放ち、その波動どおりの現実を創り、経験をさせる。なんとなく知らずに受け入れ、植え込まれていたそれらが完璧に機能して、自分の現実と経験を創り出していることを知るのではないか。

であれば、どのような定義、観念、信念をもっていれば、自分に最もふさわしいか、あるいは望むか。自覚して指さすのである。

おそらくは、『無制限の愛』であろうと思う。

みな、ほとんど例外なく、これを求めている。

求めているのに、受け取りたくもない。これが人情だ。多かれ少なかれ、わたしもそうだ。

さて『無制限の愛』が、定義、観念、信念を取っ払ってしまっても、実存していると知っているか、という問題がある。つまり、神や宇宙をどのような存在として知っているか、ということである。

オールマイティの創造性、フルパワーの愛、至福の恍惚。それがすべてを創り、あらゆる可能性を可能にしたことを当然のこととして認め、受け入れるか。

つまり、受け入れられないのである。

誰でも知っているが、受け入れてこなかったのだ。

だから、『無制限の愛』はない。という幻想が真実だと思うことにしたのである。

しかし、『無制限の愛』は観念や信念ではなく、実存していて、それらを受け入れるのに私がそして私たちが制限を与えているというのが、私の今の姿なのだと、おそらくは全員が心の奥底では認めるにちがいない。自分が『無制限の愛』であるという記憶は忘れようがないからだ。

わたしたちは部分や制限や分離の次元にいて、その中で独自で多種多様な部分や制限や分離を創り出して、遊んできた。気づいていないかもしれないが、人はみな、独自で創造性に満ちているから、この3次元世界にいると、独創的な制限(観念)をつくりだしているのである。これは別に悪いことではない。あることがやりたくなければ、やらなくてよい観念を創り出して握っていればよいのである。一時的に握っていることを忘れなければ、やりたくなったら、取り換えればよい。性格にまでしてしまう必要はない。

参考までに、わたしの性格にまでなっている信念は、

熱心にやるなど当たり前、好きでやってるんだから、とか、教えてもらうってなんだ。自分で気づけ、とか、人生を嘆くなんてもってのほか、自分で創ってるんだからなどというものだ。だから、わたしの意思で他人に親切に教えるなんてことはないのである。ヒントは与えるが、自分で深く洞察して見いだし、選択し、創造するようにもっていく。非常に偉そうだが、逆の立場でも、わたしはこれを求めている。答えは自分で出したもの以外ないからだ。

それはともかく、

一体性をまったく忘れてそれらに興じるというのが、三次元での究極の遊びだったのかもしれない。

『無制限の愛』を時々しか、またちょびっとしか感じないようにパイプを細くして、またノブを少ししかひねられないような制限をつくってきたのである。その方が生きた心地がしたのだ。わざとのどを乾かせて、ちょろちょろと水を出し、すするように飲む時の気持ち良さ。ちょっと変態チックなことをやって喜んでいたのだ。

ところが遊んでいるのを忘れて度がすぎてくると、

自分の人生には、善いことは少ししか起こらず、あれのせいでダメになったとか、これがあったから人生が狂ったとか、あいつに会ったがために不運な方にひきずりこまれたとか、いちどこうなってはもう変えられないとか、ツイてないとか、もうどうせダメだとか、なにをしたって同じだとか、おれの生まれた星は不吉なんだとか、まあありとあらゆる不幸なことで埋め尽くされてしまうのである。過去のしがらみに支配され、人生はたった一度の過ちによって全てが規定されてしまうと限定し、他人の人生もそうであるはずだと決めつけて干渉したりするのである。努力とガンバリズムと苦労の辛い人生こそが本物に見えてしかたなくなり、熟睡し、夢遊病者みたいにうろつき、非常に勤勉な怠慢者の様相を呈してしまうのだ。

あえてやっていた制限遊びだったのが、いつのまにやら深刻な現実にしていたのである。

神や宇宙を『無制限の愛』と認める前に、というか同時に、私自身が私自身を『無制限の愛』と見なしているかどうか。ここが、最初のポイント。

これは「なにしたって、愛だろう」といった観念の正当化として、見なしていることにするのではない。

まさに認め、それにどのくらいの制限を加えているかということである。『無制限の愛』にわたしがあえて制限を与えて経験している。そのように認められるか。

私自身が私自身を『無制限の愛』と見なせば見なすほど、制限(リミッター)を上に押し広げていけばいくほど、他者の存在、在り方、過去に彼らと共に創造した出来事、それらが忌み嫌い、滅ぼすべきものではなく、よりおおきな自分になっていく気づきをもたらすものだったと見なせるのである。(なんの意味もつけないという選択もある。つける必要もない。わたしは、宇宙や自分の変化を止められないので、より意識的に進化することを選んでいるのにすぎない。もっと精妙で軽くて楽な方の)

過去においてそう見なせれば、現在においては、起きてくることが変化する。同じことは起きてこないし、起きたとしても経験が変わるので結果がちがってくる。

そうすると、わたしたちの課題というか目的というか、進化は、『無制限の愛』をどのくらいの頻度でまた、どのくらいのパワーで経験するかということになりはしないか。と思うのだ。いままでの1・2倍までなら受け入れられる? これまでの2倍までなら。いや、3倍までなら。

とりあえず、1・2倍ずつ増やしていっても10かいくらいリミッターを移動させれば、かなりのものになるかもしれない。

これまで自分を安く定義づけしてきた者にとって、ちょっとでも幸福なことが起きると、死んでしまうかもしれないのである。(デュルケムなんて学者は、自殺を通してそのことを語っていたりする)であるから、無理は禁物なのだ。



まずは、自分や自分の人生にたいする観念を変える。それによって作り出された思考・言葉・行動が創り出した過去の出来事や現在起きている事の経験が変わる。これが第一段階。

次に、観念通りの現実が生じ始めるのを確認する。これが第2段階。(他人は、まったく正反対の意味をつけるかもしれない)

最後に、最高の信念で現実を創り、それを経験する。これを繰り返す。第3段階は永遠に繰り返していくことかもしれない。私が宇宙に統合されてしまうまで。しかしおそらく、途中から、信念を用いない、ただ認めているという状態、法則に沿い、法則を使って創造する、という段階に至るのだろう。この地球にいてさえ。

地球が固くて遅い時期なら、このプロセスを確認するのに時間がかかったことだろう。しかし今はちがう。とても速いのである。

速いなら、逆に制御しなければならないということでもある。制限のある定義すら即座に実現してしまうからだ。これまでは、定義して現実化し、経験するまでに時間がかかったので、それを生じさせる前に方向転換することも可能だった。というより、人間はしょっちゅうコロコロ定義を変えていたので、根底にある集合意識の定義によって自分の現実を創っていることが多かった。

おのれの定義や信念によって現実を創ろうとすれば、それにたいする100%の責任をまず認めていることが前提となろう。いまの集合意識を創っているのに自分も1票入れていることすら自覚しなければならない。恐れに満ちた集合意識の創り出した現実を他人の愚かさ、対岸の火事、政治家の責任と咎めていては、まったくそれらにむなぐらをつかまれ地べたに沈められるのである。

責任は取ったり、逃げたりするものではなく、自分で望む自分を創り出していく時、認めていた方が変えやすいのである。責任は罪ではない。ましてや罰でもない。むしろ、喜びであるとわたしは思う。今の幸福を自分で創り出したという喜びだ。

わたしは『無制限の愛』によって創られた『無制限の愛』だと見なせれば見なすほど、つまり波動があがればあがるほど、過去の現実は『無制限の愛』の経験だったと確信を通り越して当たり前にそうとしか思えなくなるだろうし、これからも『無制限の愛』の現実を創造し経験をしていくのだ、と予言すらできるのではないかと思う。

そういった現実観をもったひとが集まれば、社会的にもそういう現実が創られる。それだけのように思う。

わたしの観察では、宇宙の法則を法則たらしめる異次元の存在や想像上の生命といった形をとった機能性がある。わたしの選択した意識の周波数を実現するために設計図をひき、材料を集め、構成し、組み立てて目の前に提示する、次元やエネルギーや存在や架空の生き物である。促進し、助長する者たちだ。引き合わせ、シンクロを起こす。これも意識して許せば、もっと力を貸してくるように思う。お願いするのではなく、その存在に感謝するだけなのだが。

なにはともあれ、

幸運なことに、宇宙全体の調和が取れるのに適合したおのれの思想、行動、役割というまではわたしは進化していない。(宇宙の調和を乱すほどのことはやれていないということでもある)

であるなら、創造の仕組みを知って、その一端を使い、せめてこの地上で、精一杯たのしむことではないか。できる限り高い喜びで魂を震わせることではないか。いまを存分に満足することではないか。感謝で満たすことではないか。

わたしはしかつめらしい仏教徒より、みうらじゅんが好きだ。

わたしは解放に囚われている人より、自由が好きだ。

わたしは愛されたい人より、受け取る愛が好きだ。

「これから、もっと凄いことがどんどん起きてくる」
わたしのこの頃のお気に入りの口癖はこうだ。本気で言っている。
「簡単にだ。わたしは、最高峰を目指してただ楽しんでやっていればよい」

「起きたことは、なんでも使う」

「そこから笑いを抽出し、笑う。あるいは真理を思い出す。捨てるところはない。なんでも使う」

いま、わたしには、シンクロやミラクルは普通に起きている。これまではあり得なかったことが、平気で起きるようになった。こんな喜びを感じてよいのか、と思えるようなことがどんどん起きてきているのである。よし、

明日は、自分史上、最高の経験が起きる!

(と断言するには、ちょっと不安があるのを知って、自分はすばらしい経験を自分で受け入れてこなかったんだな、と知った。リミッターはもっとMAXを更新できる)