地に足をつけて生きるとは、

簡単に言ってしまえば、

いま目の前のことを喜んでやる

ということだと思います。

特に、学校の勉強や食べるためにやっている仕事を。

やらなくてはならないから、仕方なく、とか嫌々ながらやっているのは、

その在り方そのものが、どんなに世俗的で世間的であったとしても、

地に足がついていない、浮ついた生き方だと思います。

どこか遠くに旅行をしたい、逃げたい、なにかおもしろいことが起こらないかなあなどと期待してタメ息ばかりついている。そんな在り方は、かれらが最も忌み嫌う、スピリチュアルや文学、あるいはアイドルなどにのめりこんでいる者となんらかわりない。自分の生活のうまくいかないのを全て政治家のせいにして文句を言うのも全く観念的で、自分が権力に支配されるのを助長するのにうつつを抜かしているのではないかと思います。そして、そんな在り方を私は全く批判しない。ただ、嘆きや不平不満のサイクルで自己完結していますよ、とは思います。窒息しそうになってきたら、いまかぶれているスピリチュアルや文学やアイドルを捨てるのではなく、目的をちょっとだけ高次にスライドすることをお勧めします。そうすると、もっと楽しめるようになると思います。

たとえば学校の勉強。

やりたくない、つまらない、めんどくさい。

こんなのやる意味がない・・・。

もっと世の中を善くすることをやるべきだ。

同じ人間に序列をつける制度だ。

どんな理屈をつけても構わない。であるなら、なにをやっているか、やりたいのか。

それが問われることになる。

あなたは、いったい何様なのだ、と。

そこで自分探しに出かける。現状を嫌い、否定しながら、自分探しをする。

どれが本当の自分か分からないという状態にいながら、自分探しをする。そこで見つかるのは、どれが自分か分からないということばかりではないでしょうか。

足の速さに生まれつきの素質があるように、学校の勉強も素質があります。

ですから、同じ量の問題演習、同じ長さの時間、同じ期間の勉強をすれば、
結果には差がつきます。では、2倍の量を努力すればいいのでしょうか。それもありです。できるならやればいいと思います。

けれども、勉強ができる人は、たいてい勉強が好き。意気込みがちがいます。

高速で大量をこなします。長時間机に向かいます。それでいて、へいへいとしていられるのです。

そうでない自分を知ったなら、あるいは幼いころからそんな習慣をつけられていないなら、

たとえば、記憶の仕方を工夫する。

いま知恵をだす。

どんな暗記法を開発すれば簡単に大量に記憶できるか、この一点の知恵を出すことに全霊をかたむける。

これは、おもしろい。

最初はひとの言うことを参考にしても、どんどん自分のやり方を開発していく。

本当にたったちょっとの工夫で、効果が何百倍にもなる。

机に向かう必要もない。時間もかえって短縮できるくらいの方法を開発できるはずです。

おもしろい実践だから、時間がかかっても、楽しくて仕方がなくなるかもしれません。むしろ時間をかけたいとすら思うことでしょう。知恵を出すのは一瞬ですが、知恵を出すための試行錯誤や研究には時間や金を惜しまなくなります。この状態にあるのが楽ではないかと思います。

それがある高みに至ったら、こんどはたとえば志望校の問題を徹底的に研究する、自分の眼で見抜く。そしてどこをどんなふうに対策していれば、走るのが速い人に勝てるかと知恵を出してわくわくする。わくわくして日々の勉強を工夫してやり、成果が出た時は、おっしゃー!と拳を握る。

伸びていく自分に手ごたえと喜びを覚える。自信がおおきく揺るぎなくなる。実は、この状態になればもう、目標としていることの結果は不要だとさえ思います。にもかかわらず、たいていは望むようになる。なんとありがたいことでありましょうか。

知恵が知恵を生み、

自信が自信を生んでいきます。

べつに、勉強がどうしても嫌いな人は、皿洗いでもいいと思います。

どうすれば、速く軽やかに優雅にやれて、美しく仕上がって綺麗に並ぶのか、それに知恵を出す。鼻歌をうたうくらいのことは誰でもやるでしょう。その皿に盛ると、料理が輝きだし、おいしさを増す。家族が、心からおいしいと喜び、笑いが起きる。

なんだって、いいんです。

いま目の前にあることを楽しんでやる。

知恵を出して工夫して、その喜びを伝播させていく。

なんだか、この天にも昇りそうなウキウキした気分。

逆説的になってしまいますが、

これが、地に足をつけて生きるということではないかと思います。