ヤプーが大学に入学した時、新入生歓迎ソフトボール大会が、すでに6月も終わろうとしているのに開催された。
「おせっかいに」ヤプーはぼやいた。「だいたい、どうして同じソフトボールをする者どうし戦わなくちゃならないんだ?」
入学祝いに母親に買ってもらった灰色のポロシャツにすそ幅の広い茶色いコールテンのズボンをはいてヤプーは運動場に出向いていた。横にいた生物学科がきいた。彼も『赤い花』だ。
「なんだって?」
「サッカーも、野球も、やってる人は好きでやってるんだろう? なのになんで相手をやっつけ合わなくてはならないんだって言ってんだ」
「もういっかい、言ってくれ」
「だから、それがお互いに好きなんだから仲良くしたらいいじゃないか」
「わからん」
「えーーーっ。あんで? どうしてわからないかなあ」
ヤプーはたいへん不服だった。こんな簡単なことが解らないとは。自分にもし罪があるとすれば、進化しすぎていることだ。だいたい世の中、すぐに競争や戦いにもっていくことが多すぎる。そんなことに自分は興味をもたない。遊ぶなら、人形でままごとをしたらいいのだ。世界中の人がそうなったら、戦争はなくなる。ヤプーは、下等動物を見るような目で生物学科をいぶかった。
「ユニホームを着て、バットとボールを見ながら、互いに酒でも酌み交わすか?」
生物学科がかっかと笑った。ほら、これだ。どうも大学というところは野蛮なところだ。戦いのゲームを開催して、それで新入生を仲良くさせようとしたり、そのことに疑問すらい抱かない。なんというていたらく。ヤプーはぷんぷん怒った。
それまで黙って一緒に歩いていたスガが口を開いた。
「平和や戦争について、常に考えておかないと平和にはならない」
「えーーーっ?」ヤプーが素っ頓狂な声をあげた。「戦争のことなんて忘れて、平和なことだけ考えておくんじゃないかなあ。戦争をしたがる人間は憎んで吐き気をもよおしておけばいいんだ。どうして人間は、すぐになんかやりたがるのかなあ。余計なことは何もしなくていいんだい!」
これ以上の答えはない。自分は他の考えを絶対に受け入れてやるもんか、とヤプーは固く決意した。生物学科がまじめな顔になって言った。
「戦いがあるなら、勝たねばならない、とは言わないさ。でも、お前の言っていることは、愚図の正当化だよ。文句だけ言って、何もしない、成長しない輩の言い訳だ」
「しょーうかなあ」不服な気分で宙を仰ぎ、ヤプーは受け付けない。「成長って、あぶなくない?」
浪人時代までの自分は純粋だった。なのに、大学に入っていろんな人と交流する内に、どんどん汚されていくような気がする。まだ、ほんの3ヶ月なのに。
グラウンドはカラカラに乾いていて、時折風に煽られ砂ぼこりがふきあげた。
1回表は0点で終わり、ヤプーはそこがどんなポジションかも分からず、ベンチに最も近いからという理由でサードにいることにした。ベースの真横に棒のように突っ立ったまま、まだ、戦うことに対してぶつぶつ言っていた。
そんなことを思っていたからだろうか、力任せに振り抜いた一番バッターの強烈なゴロが飛んできた。怖かったので右によけたら、ボールはどういうわけかイレギュラーバウンドを起こして、ヤプーの左あごに直撃した。ついでに鼻がしらまでかすってファールグラウンドに出ていった。まるで、夏の夕刻にまく打ち水のように、ヤプーはサードベースを中心にして弧を描いて赤い血液をまき散らした。それから、めくらめっぽうヤプーはそこらじゅうをかけまわった。いつまでもボールを拾わないので、ランナーは2塁を回って猛然と3塁に向かってくる。ヤプーはふらふらして停止してベースの上に立ち尽くした。円を描きながら走るランナーが3塁ベースを踏むためにヤプーをちょっと触ったので、遠心力が伝わりヤプーは血を噴き出しながらその場をくるくる回った。
グローブを枕にして鼻にテッシュを詰めヤプーは試合が終わるまで木陰に横になっていた。ポロシャツはまるでひたひたの刷毛で塗料をぶちまけたように血で染まり、コールテンのズボンは倒れた拍子に踏ん張ったので右のもものところが裂けた。自分はどんどんうまくいかなくなっている。他の考えに触れればふれるほど、不都合なことが起きてくる。じんじんするアゴと鼻の痛みを感じながらヤプーは憤懣で悲しくなった。なにもしなけりゃいいんだ。そしたら、なにも起きてこない。どうして人間はいろいろやりたがるのか。不思議で仕方がない。ご飯を食べる以外のことは、考えるだけでとどめておけ。実行するから、おかしなことになるんだ。これが愚図の言い訳だって? とんでもない。平和思想と言ってもらいたい。純粋なままでいたいのだ。これを汚す者には死ぬ気で抵抗する。汚しそうな奴は憎む。先に攻撃してでも侵略を食い止めるのだ。ヤプーはむかむかしてきた。
馬になりたい。ヤプーは思った。馬なら、家も要らない。住むために金もかからない。食べ物は地面に生えているのをよく噛んで食べればいい。おいしい植物の若芽を見つけたら、懇ろになりたい牝馬にだけ教えるんだ。ふたりでこっそり食べて、バレないようにきょろきょろするのは楽しいだろうな。ヤプーは、審判のかけごえや応援の声、バットを振る音やボールを打つ音が遠くに聞こえ始めた。走りたくなったら走る。休みたくなったら休む。眠りたくなったら眠る。それでいいじゃないか。どだい、人間はやらなければならないことが多すぎる。この受験だってそうだった。本当はやりたくもなかった。けれども、やらずに就職するのと比べると、まだ受験に成功してモラトリアム期間を得る方がマシだと思ったから、奮起してやったのだ。逃げ馬が逆に大きな成果をうむことだってあるんだ。ところがどうだ、そのせっかくの成果も、くだらない大人の社会に組み入れられていく下準備に拍車をかけるばかりじゃないか。投げたくもないボールを投げ、打ちたくもないボールを打つ。点を取って喜びたくもないのに喜ぶ。逆転されると悲しむ。どうでもいいことだ。どうでもいいことばかり、人間はやりたがる。そんなことを考えて、ヤプーはくさくさした。
「どうしたんだ?」
別のグラウンドで先に試合が終わり、観戦しにきた生物学科が、寝転がっているヤプーをみとめて言った。ヤプーは答えたくなかった。この男は、ぜったいに笑うだろう。自分の考えをハナから低レベルと決めつけ、この不幸なできごとですら、愚か者の愚かな結果としてとらえ、馬鹿にして高笑いを決め込むにちがいない。
ふん!
ヤプーは鼻を鳴らした。ポーンとその息で、豆鉄砲のようにテッシュが打ち出された。
「そうか、3塁を守っていてイレギュラーバウンドして鼻に当たったんだな」と生物学科は言った。「それは、災難だったな」
ヤプーは吃驚した。見てもいないのにどうしてわかったのだろう。半身を起こして鼻のティッシュを込め直しながら彼を見た。
「そこにボールを当てるのは、振りそこなったバッターか、サードしかいないからな」
そうか、なんだ、そういうもんなのか、とヤプーは思った。
「要するに、下手糞ってことだ」
生物学科が付け足した。
「おまえは、このフィールドの中で精一杯ゲームを楽しめるくらいまで練習することだな。練習でも試合でも、今やっていることを楽しむことだ。そうすると、戦っているように見えて実はひとりひとりが自分を伸ばし合っているだけだってことが分かるだろうぜ、成長のためにやるんじゃないけどな」
ヤプーはじっと見上げた。揚げ足を取りたい気分に襲われた。言葉じりを探してみた。あらゆる反論、あらゆる嘲笑がわき起こってとぐろをまいた。
「そんなこと言ったって、すぐにはできんだろう。お前はどうなんだ!」
と言おうとしたのと同時に、
「ゲームセット!」
アンパイアをつとめていた先輩学生がコールした。
「さあ、じゃあ、スガんところにでも行こうか」
生物学科がヤプーをうながした。