ところでトッポは、ジーンズ柄の封筒を開けもせず、捨てるのもナンだからと、抽出にしまっていた。大学に入る時も、引っ越しの時に出てきたついでに、なんとなく持って来た。普段は忘れていられるよう、目にはつかないが、いつでもその気になった時には開封できるよう、ベンチチェストの上の網状の小物入れにそっと置いていた。着替えをしていて、それがふと目に留まった時など、じっと見たりセンスがわるいなと思ったりしたが、開けて中を確かめようとまでは思い至らなかった。どうせ、中にはどんなことが書いてあるか、おおよその見当はついている。おそらくは、いや確実に、熱烈なラブコールだ。それも、あとで本人が読めばきっと恥ずかしくて顔から火を吹くような。トッポは透視能力者にでもなった気で高を括っていた。何かとんでもないことがあって、よほど気が向いた時に開けて読んでやろうとトッポは思っていた。慰みは小出しにして、とっておく。読まれたはずだと確信しているあの男子生徒の期待をはぐらかし、読もうとしたり思いとどまったりして玩ぶのは、いささか滑稽で楽しかった。
その封筒が今も目に留まったが、冷ややかな笑みを浮かべて目を背けると、トッポは壁の梁にこさえたフックに掛かっている中古風のハンガーに目を移した。そこには、6年前にオープンしたが地方ではまだ新鮮な佇まいをみせるPARCOで買った、赤地に白レースのふりふりのほどこしてある服が吊るしてあった。ロリータにゴシックがくっつくのは、もう少し後の時代になるようだ。白いロングソックスをロリータの中から垂らし、赤い革靴までが服の下に置いてある。
4月の初め、生活必需品を調達しようとアーケード商店街を歩いていた時、底の厚い靴を履き、頭にヨダレかけをつけた女子がすれちがった。むりしているな、とトッポは思い、彼女の背面を追って鶴のように曲げていた顔を前に向けた。そこには、あざけりや小馬鹿にしたのを表現する、かすかな筋肉の萎縮があったが、その動きをさせたのは対抗意識にも似た怨念であったことはいなめない。自分は何をもって大人として認定されているのかーー。こんな体、着ているだけじゃないか。トッポは歩きながら、社会通念とそれを呑み込み呑み込んでいることさえ知らない、世間に埋没した人間を思い浮かべ、憎悪した。顔をあげると、すれちがう人々がみな、敵に見えた。
それからすぐ、ショーウインドウに同じような服を見つけた。ためらいがあった。どんな理由をつけて購入するのか。大人の肉体に幼児の服を着る。勝手に成長してしまった肉体にさらに服を着込むことで、自分を表す。それを人前に晒してまで、本当の自分を顕示しなくてはならないかーー。畢竟トッポは、腹部に迷いを残しながらも、理性を停止させ、だが暗い顔をしてそれを買った。けれど部屋に戻って紙袋から出して見ると、嬉しさがこみあげた。
トッポは服を脱ぐ動作を速めた。素っ裸になった。
そして、そのまま、玄関に向かった。赤と白のロリータは、壁に吊るされている。意を決してトッポは、そっと扉をあけた。通路につけてある蛍光灯が薄暗く辺りを照らしている。目玉だけを動かし周囲をうかがった。耳殻を動かし、近づく物音を推し量った。今だ。おそらく3秒以内に、人がボクの姿をとらえられる領域に入ることはない。トッポは扉を閉めた。いちばん奥にある部屋から5つの扉の前を小走りに走り抜け、暗い、側道のほころびかけた細い道路にでた。振り返ったが誰も部屋から出てくる者はいない。走る時、ちょっと冷たいももの内側どうしがこすれあい気持ち良かった。
トッポは、公園に入った。おあつらえむきに、外灯は切れかかっており、不規則な点滅を繰り返していた。月は出ていたが、かすみ網のような黒雲がかかっている。トッポはしばらく立ち尽くした。股から下腹部、腹にかけての肉欲に似た快楽をおぼえた。脳髄が溶けていきそうなくらいの興奮で恍惚とした。しかしそれは、すがすがしい喜びのようにも感じられた。ゆっくり歩いていると、肩の丸い皮膚に生えた産毛がちいさな風を感じた。裸で歩く。これが人間の姿ではないのか。人間以外に服を着ている動物はいない。人間は動物を下等と決めているら、服を着ていない動物を下等だと見なすが、服で体を隠したり飾ったりする方が下等ではないのかーー。
いきなりトッポはかがみこんだ。よつんばいになった。長い髪の毛が背中を渡って尻にまで届いている。それはまるで馬のたてがみと尻尾に見えた。一連の自分の考えに何か小さな矛盾があるようにも思った。けれど、いまはこうしたくて仕方がない。奥底からわきだす衝動だ。そしてトッポは、赤ちゃんがするようにハイハイし始めた。伸び始めた草むらは石ころがひざに当たるのを防いだ。ぐるぐるぐるぐる公園をハイハイして回った。ひとしきりそうしているとだんだん慣れてきた。日ごろ社会的に抑圧されている大胆なポーズを取ってやろうと思った。よつんばいのまま、トッポは曲げていたひざをまっすぐに伸ばした。そうして、尻をつきあげ、肛門を空に面と向かった。どうして人間は、この部位だけが、極めて奥まった所についていて、しかも幾重にも隠そうとするのか。下着、ストッキング、ズボン。それをさらに社会の常識が覆う。動物は隠さず平気でさらけ出しているではないか。トッポは括約筋を動かしてみた。月からゆっくり雲が流れ去った。ちいさなイソギンチャクのように、開いたり閉じたりしているのが明るく照らし出された。羞恥心が薄れてきた。動物だったころの気がねなさに戻った気がした。けれども彼らは羞恥心すら、そしてそれにともなう罪悪感や快楽すら覚えていなかったろう、そう想像するとトッポは無心になってハイハイした。この姿を誰に見られてもかまわない。記憶が飛んだ。トッポのまなこが、まっ黒になった。月明かりがまなこの一点にイタズラっぽい光を反射した。頬はたるみ、あどけなく緩んだ。けれども、すぐに我にかえらなければならなかった。靴底のアスファルトにこすれる音がしたからだ。
夜を着ている自分は、まだまだ動物の無心さにはかなわない、とトッポは思いながら、ハイハイを続けた。

ーー、これらのことは、まだ起きるかどうか確定していない。