どうもわたしには、エゴを取り除く、煩悩と戦うという言い方が出てくるのは、言葉のアヤではなく、エゴや煩悩から出てきているように思える。

どうもわたしには、受け取り方は相手次第とだけ言うのも、少しでもひずみ雑味があることを送り出すことは送り手の責任というのも、どちらも片方しか観えていないように思える。

どうもわたしには、欠点矯正をしたがる人は、欠点だらけに思える。そして欠点を毛嫌いし、呪っているように思える。

エゴは、よく見つめなさい。

煩悩は正面から見つめなさい。

そして、もっと大きな視野で物事をとらえ理解しなさい。

そういう言い方が好きだ。

どんな波動を送り出すかは、細心の注意で見守りなさい。そして還ってきた波動をよくよく見つめなさい。自分にふさわしくないと思うなら変えなさい。

相手の送って来た波動にどんな意味を観たか、よくよく見つめなさい。正確に受信しえたか、そしてどんな解釈をしたか、見つめなさい。

そういう言い方が好きだ。

欠点は欠点として見つめ、長所を伸ばしなさい。

魂のより深いところ、高いところが喜ぶことをどんどんやんなさい。

喜びをバージョンアップしていきなさい。

そういう言い方が好きだ。

これらは、わたしが好みなので、わたし以外には通用しない。


自分のネガティブな側面には目を向けたがらないのが人情。そして一度目を向けたら、取り除こうとするのも人情。取り除けば、純粋になって波動が上昇すると思うのも人情。それに対して、上下、善悪、優劣など様々な経験が人格を作ると言いたくなるのも人情。2元性の便利さもあるだろうと言いたくなるのも人情。

わたしは、不幸だと嘆いている人のアドバイスは聞こえません。彼が、不幸だと思わないから。

わたしは、うまくいかないと嘆いている人のアドバイスは聞こえません。彼が、うまくいっていないと思わないから。

わたしは、誰かが自分の言うことを聞かないと愚痴っている人のアドバイスは聞こえません。すべての人が自分の言うことを聞いていると思っているから。


いいですか、あなたが『自分のネガティブな点はなくならない。ただそこに目を向けてどうして自分はそんな行動をしているか知ることで、ネガティブな点がネガティブでなくなるという意味です』と言ったのは、自分を深く見つめたからですよ。それまでのあなたは、トマトの苗についたアブラムシを取り除くがごとく取り除くことが目的になろうとしていたんです。ちがいますか? だから、ドットを取り除くという言い方になって現れていたんだと思います。そういう意識でないなら、少なくとも『自分の内面を深く洞察する』といった言い方になるはずです。数学の問題を何題解いたから善いとか、参考書を何回回してやったから善いとか、そんな安易な意識に流れていっていたのですよ。問題のひとつひとつを丁寧に理解し、納得し、感謝すれば済むことなのだと私は思います。嘆くことも、攻撃することも、またあった、などと思うこともありません。親鸞は晩年もそうやって欲を見つけていたそうです。いいですか、だから、あの程度なのです。

ないと思ってもあるのがネガティビティでしょう。でも、だから、なんなんですか? もうなくなったと傲慢にふんぞりかえることはありませんよ。静かに見つめていけばいいじゃないですか。わたしは、そう思います。

変化しない長い期間もあるかもわからない。急激に変化する瞬間もあるかもわからない。

ただただ、なにがどうなっているか、できるだけ正確に見つめて、感じていきなさい。そうして高い目的が機能するような、思いと言葉と行動を選択して送り出しなさい。結果を観て、より自分にふさわしいものに変えたければ変えなさい。

こんな余裕のある意識が、今のわたしには、ユニバーサルなものに思える。