トッポには仲の良い友だちができた。トッポの通う文学部史学科は法学部と同じ建物の中にあったが、まだ教養部があったので、全学共通の科目を取っていたら知り合い、馬が合ったというか、コロコロ鈴のように笑う素敵な子だった。奈津子といった。奈津子は『赤い花』に入ったばかりで、そこでの話しをよくした。聞いていて自分もやりたいと思ったトッポは、講義がない時間に奈津子と共に『赤い花』の部室を訪れたのだ。断っておかなければならないのは、これから起きるすべてのことは、まだトッポの身に起きていない。予定調和通りに、こういう未来に収束していくかどうか、まったく決まってはいないことなのだ。
部室に入ると、テーブルに腰かけさせられ、先輩部員達があれやこれや説明をした。前に置かれたアルバムをぱらぱらめくった。そこには、3年になりサークルのリーダーとなっていたヤプーのピース姿も写っていたのだが、まったく目には止まらなかった。『花祭り』と銘打たれた小学生と合同の植栽イベントの光景が楽しそうで興味をひいた。
ほとんど『赤い花』に入ろうと決めて、奈津子とも別れ、さて夕食のための買い物をしてから下宿に戻ろうと一人で通りを歩いていた時、声をかけられた。『あざみ』だ。
アパートの二階に連れていかれた。中は明るい雰囲気で、そこにいる人たちも気さくでニコニコ笑顔を絶やさなかった。差別なく、先入観なく誰でも愛するという理想が、頭の良いトッポには入っていたことから、何の気なしについていけたのだ。部屋には白い角張った台がひとつ置かれているだけで、安っぽいカーテンの向こうにキッチンがあるようだった。アイスコーヒーがやってきた。あざみの同志とおぼしき男子学生がビデオをつけた。そこに映し出されたのは、キャベツを大量に千切りにするマシン。ジュースを作るために搾取されている蜜柑や林檎。シロップ漬けにされ缶に密閉されていく白桃、黄桃。黒々と焙煎されていく珈琲豆。花、白菜、キャベツの投棄風景、薬品づけにされているバナナたち、そんなありとあらゆる植物に関する光景が無音で映し出された。しまいには、コールスローサラダをむしゃむしゃ齧っている男の人の口が画面いっぱいに流れた。
それがどうした。正直なところ、トッポはそうおもった。
「どう思う?」
同志のひとりが質問してきた。
「どうって、これ、ただ、食品の製造工程を映しているだけじゃないですか」
トッポは明るく答えた。
「お、よく見てるねえ」
「これのなにが問題なんですか? なにを思えって言うんです?」トッポは笑いを雑えながら言った。「だいたい、このアイス珈琲、おかしいでしょ」
「さすがに、よく考えてるね」同志は感心した様子だ。「もっと話を聞きたいから、ちょっと喫茶店にでも行かない?」
喫茶店ではひとしきり笑い話をして盛り上がり、外に出たころにはすっかり暗くなっていた。
「じゃあ、また遊びにおいでよ」
同志のひとりがそう言った。トッポは、ええまあ、とあいまいな返事をしてその場を離れた。歩きながら、得体の知れない感動をおぼえていた。自分がこれまで密かに育んできた考えを認められ、存分に発露できた喜びでトッポは有頂天になっていた。それが、一食浮いた、というつぶやきと共に出てきたのだった。下宿に戻るとトッポは日記を開いた。どうして自分はこんなに憑いているのか、こんなに人にウケるのか、そんな言葉があちこちにちりばめられた。
こんな嬉しい日こそ、以前からうずいて仕方のないあの衝動を実行しなければならないと思えた。それは、ついこの間からトッポの胸の奥にダニのように取り付いて離れない、抑えがたい昂揚感なのである。トッポの一生を見ても、本当にこの時期、ほんの短い間にしかなかったことだ。春だったから。そう理屈をつけてしまえば簡単なことだったかもしれない。
下宿の前にはあまり手入れされていない公園があった。その向こうには国道に顔を向けているホームセンターの裏面が見える。周囲は古ぼけた民家が建ち並んでいたが、外灯もとぼしく、夜は怪しく薄暗いしじまがあるだけだった。この界隈なら成功するのではないか、とまだ越してきたきばかりのストレンジャー気分のトッポは考えた。大学から少し離れた奥まった場所でもあり、昼でも人が住んでいるのかと思うくらい人通りがなかった。同じアパートには一階、二階と、最低でも学生が12人はいるはずなのに、不思議なことに出かけたり戻ってきたりする時に誰かと出くわすことは皆無であった。
春だったからーー。
トッポは、立ち上がり、着ている物を脱ぎ始めた。