ポストライムの舟とは、聞いたことがないなあと思ったのが読むきっかけになったのでありますが、これがなかなか面白い。もちろん主人公に共感はしない。なんだか、腹の辺りでモヤモヤっと執り行われている話だな、と思う。しかし、私はこの小説が好きである。まだ、天才だからだ。なんだかよく分からないところや一人合点のところ、結論を置き去りにしたまま勝手に進行してしまうところなどだ。そんなところに、くっきり隈取りしたような文章や構成になってしまう熟達した作家の書く物より遥かに魅力を感じてしまう。焦点の定まらないボヤケ、ごった煮的な意図しない化合味、偶然入り込んだ潜在意識深層心理、それらによって玉虫色に彩る読み方の多様性。皮肉でもなんでもなく、精練されてしまった老年作家の(年齢に限らず)珠玉の作品より壮絶にすばらしいと思う。いろんな実験に走る成長をやめた秀才作家より、自分の中心に戻り続けた当たり前の作家を私はおおいに支持します。なぜなら、それを天才というからです。

さて、読んだ方は気づかれたと思いますが、終盤、主人公のナガセは咳をします。『マスクを外して喉を乾かすと、とたん気管がせりがるような感じがして、むせるような小さな咳が始まった』『ナガセの咳はやまず、常態化したそれをもはや誰も気にかけなくなっていた』『マスクをしていない時には、十分に一回体を折り曲げて咳こむような有り様になっていた』などの描写によって頻繁に主人公が咳をしていることが伺えます。つまり、これはよくある暗喩というものですが、この時代の特徴として、それが単に肉体的な痛みや歪みで社会の現状をほのめかそうとしているだけではないように思います。

例えば、ちょっと古い小説ですが庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』には冒頭、主人公がどこかにぶつけて左足親指の生爪をはがすケガを負っていることに対する長々とした説明がある。家具の角にぶつけるなら足の小指だろうと思うのだが、この主人公は親指をぶつけ、爪まではがしている。主人公の思いとしては、直立歩行ができなくなったので、人類としての条件を欠いた、ということなのだが、この時代の読者ならすぐに、左足のケガ=左翼の惨敗、親指の生爪を剥がす=東大の入試中止による親方日の丸への一矢報などを連想し、また右翼と左翼のバランスを崩しているなどと読んだかもしれない。つまり、国家が右往左往している、と。作者自身は文庫判『赤頭巾ちゃん気をつけて』のあとがきでこう書いている。
ーー「みんなを幸福にするにはどうすればいいか」がはっきりと分からないうちは、少なくともぼく自身は「ひとに迷惑かけちゃだめよ」で精一杯やっていく他ないのじゃないか、「自分のことは自分でやって」、という主人公の設定のもとに書かれたのがこの「赤頭巾ちゃん気をつけて」ということになる。「みんなを幸福にするにはどうすればいいか」、すなわち優勝劣敗の最終的な緩和は可能かという事柄の核心は保留にして自らの「封印」を破った、とでも言おうか。左足親指の爪をはがして直立歩行できない、という設定を主人公にちゃんと加えているところがなにか眩しいみたいに正直だ。
つまり、『優勝劣敗の最終的な緩和は可能かという事柄の核心』にたいして、ちゃんと歩けていない主人公を通して、確信的な答えを持っていない作者自身と世界人類の有り様を象徴していたのだろうということだ。

ところが、それから四十年以上の歳月が経った昨今なら、そうは読めない。クリスティン・ペイジ博士の説にのっとって書きますが、まず、体の左半身は、女性性を象徴し、その部分に症状がある場合は、女性や母親、妻などにつながる問題がある。そして、足の親指は行くべき道を進むよう私たちを前に押し出して行くれる指なので、そこに障害や病気が出るのは、自分の力だけで前に歩きだすのをためらっている。さらに爪は、強さとバイタリティの象徴だ。だからこの主人公は、あるいは国家は自信をなくしている、さらにはそれゆえに話し合いに応じない非友好性があるなどと読むことであろう。
たしかに、主人公の『ぼく』は、女友達の由美との関係に戸惑っているし、彼女の家に電話をかけると必ず母親が出てくることに疑問をもったりする。ママのお節介とか、近所のおばさんたちの現実主義に異議をもっているし、そこの焦点をあてると、勇ましい全共闘の時代の小説とは思えなくなってくる。理想とされた「結果の平等」を国家権力にした共産主義の国が次々とその体制を辞して行き、まあ「失敗」としか総括できなかった今となっては、共産思想以外で優勝劣敗の法則に本気で決着をつけようとする若者がいたことすら想像もできないのかもしれないが・・・。いまや人類は、直立二足歩行できるようになったのか。

ポトスライムの作者もナガセの咳を喉と関連して、当然のごとくに、スピリチュアル的解釈を期待していることであろうと思った。(意図していないのであれば、天才味が増す)喉の病気、咳き込むことが社会の有り様を暗示しているというより、個人のゆがみが肉体にどのように現れているかである。社会の集合意識を主人公ナガセの体を通じて排出されていると、私は読みたくない。あくまで個人的な問題として積極的に還元したい。自分の不幸を社会のせいにするところが、社会に問題を造り出し、それが依存心の強い責任を意識しない者に戻ってきている、自業自得と突き放すつもりはないが、私は積極的にそう読みたい。作者がちがうと言おうが、最高の読み手が的外れだと主張しようが。その読み方を支援する記述はこれだ。『重い咳は、ごほんごほんというような擬音を通り越して、まるで喉に、うるさい豚の動物霊が宿って鳴き狂っているかのようだった』

喉は第5チャクラ。自己表現や人間関係がキーワードです。

つまり、ここがこじれているということは、本当の自分をうまく表現できておらず、創造的な自分を否定しているということになると思います。主人公が、心当たりのない不当なパワハラに遭ったのも、うまく自己表現ができていないからかもしれません。腕に『今がいちばんの働き盛り』などと入れ墨をしなくてはと思い詰めるほど、仕事に情熱がわかないのも、ここが働いていないのかもしれません。逆に人生に希望も目的もなく、やりたくもない仕事をやっているから、ここに現れているのでしょう。
主人公にそういう病気を持たせることで、現代若者の意識を投影しているのかもしれません。つまり、動物的、食うためだけに働いている夢のない人々。あるいは、おおきくてキレイなことだけやりたがり、世の中を善くするために他人の爬羅剔抉しているその矛盾を指摘されると、誰それ構わず、おまえ呼ばわりして逆ギレする、日本人の為世界の人の為に貢献している気になっている偽ボランティーア。自分の善悪判断と異なる次元の意見を聞くと、あざけり基地外呼ばわりする2ちゃんねる者。情熱をもってやっている者を小馬鹿にしてせせら笑う者。そして、そういう者が上司や教師になると、猛威をふるう。そんな人に目をつけられたら、逃げ延びて自分を反省しなければならない。やる奴だけが悪いと言っていては、なにも解決しないと思う。
とのわたしの主張を聞いて、「あなたはなにも解っていない」と怒り狂う者が、実はこういうハラスメントを平気でやっていることに気がついていない場合がある。劣等感は時として、加害と知らずに誰かに恨みを晴らす。自分に猛威をふるった上司や教師にまったく被害に遭わない者も多くいることを知れば、なぜ自分だったか、なぜ猛威を引き寄せたのか、自分に責任を置かないで一体なにが変わるのか。それは決して言いなりになることでも、ちいさむ縮みこむことでもない。その反対だ。
それ故に、ナガセのしていたマスクは、外界の塵芥あるいはスギ花粉などを吸い込まないように防御する物ではなく、自分の口からネガティブなことを言い出さない堤防として被せてあったと、わたしは読む。