『あんな人がいるんだ、こんな人もいるんだ、と知ることが自分に、あるいは全体にどれだけ影響を与えていることか。人と人、人と他の存在との相互作用が、自分や社会を創造していっていると、私は思う。その人がいることで、知ることで自分や社会の人間や物に対する認識が広がったのなら、存在意義はあるということだし、存在意義のない存在などない。それが、存在するだけで成功だという意味ではないかと思う。霊性の進化は、なんらかの観念に囚われたり、これはこういうものだ、と押さえつけない限り、猛スピードでなされるものだと思っている。異質な者が近くにいることが、いかに進化のスピードを本来のものにもどしていることか』
というようなことを、ある人のブログのコメント欄に書いたのを見つけた人が、これ、自分のブログに書いたらよかったじゃないと言った。
「こういうことを書きたくなる記事やコメントの流れとか、主催者の創っている場の雰囲気というものがあって、出てくるんだから、いきなりこれだけ書いたってなんのことだか解らないよ」と私は答えた。
アドバイスをくれた人が、こんなすばらしい内容を他人にくれてやる必要はない、という裏には、あなたの口調はきつくて痛烈だから、批判しているようにも聞こえる、と心配しているのでもあった。なるほど、そうかもしれないと思った。だから、ここで1人でほざいておけ、と。
しかし、人と人との相互作用というのは、私の学生時代からのテーマであり、それは実践もしてきたし、観察もしてきて、いまやそれがエネルギー(波動)の交換であることまでつきとめた。相互の周波数の錯綜、混乱、融合・・・。相手から受けた波動が自分に交じり、混じった波動がまた相手に届く、それがまた来て、と融和していく。あるいは、決裂という結果を招くかも知れない。どちらにしろ、相互作用があり、お互いの間に新しい人格を創造していることにはかわりない。私たちが相手本来の姿だと思っているのは、たぶん、第一印象だけで、その後は自分の波動も混じった相手、そしてしまいには両者の間にいる別人格を観るようになるのではないか。もし、それがいけ好かないのであれば、誰を嫌っているのか、自分のどこをまだ見つめていないのか、それを知る機会にすればいいのではないかと思う。固定する必要はないし、固定しているはずがない。学問的に捉えた瞬間、するりと逃げる。それが創造というものだ、と私は思う。刹那せつなの今を、相手を捉えていく。敏感に察知していく。先入観はせっかくの今を観る楽しみを奪っているのではないか。また、この人か、とうんざりさせる。何回会っても初対面。私は、家族とそんなふうに接している。だから、とても新鮮だ。
一緒にいるかいないかは、互いの霊性の進化を目的にして見極める。私といるより、他の人といた方が促進させるのなら、別れるし、外に送り出す。いたって、シンプルだ。あっさりしている。四の五の言って、ひきずったり粘り着いたりして互いの人間関係に悲劇を造り出して存分に楽しんでいるが、誰でも結論は、それだけだ、と私は思っている。
