なにがなんでも旧体制を壊さなければ、新しい世界は築けないと思い込んでいる人がある。
でも、よく観てみると、たとえば新しい車が欲しいなあと思った時、わざわざ今乗っている車を壊さなければならないだろうか。
それは他の人に譲るなり、下取りに出すなりして、新しい車を買うんじゃないだろうか。新しい車を買う時にお払い箱にして、自分ではもう乗らない。同時には乗れない。
なのに、旧体制だけは、しゃにむに壊してからでないと前に進めないとするのは、どうしてか。
旧体制に、自分の依存心をなすりつけているのだと思う。執着心をむきつけているのである。
一生懸命に壊そうとする。
でも、壊さない。本当に壊れたら、執着心の行き場所がなくなるから。で、壊れないように壊そうとする。やったのにできなかった、と苦労を披露する。できなかった自分を卑下して笑う。
望む社会を作るためと言いながら、目的はちがうところにあるように思う。
NOだと思うなら、観ていて、社会の調和を取るのにふさわしくないと思うなら、もっと機能的なシステムをさっさと作ればいいのである。車を買い替える感覚で。
前のを壊そうと躍起になるより、次のを作り始める方がどんなに希望があるか。そして、楽しいか。誰でも知っている。
前の車さんどうもありがとう、次の車さんどうぞよろしく。それで、いいんじゃないか? 前のも充分に楽しんだ。次のも充分楽しみます。ずっと楽しみます。それじゃいけないんだろうか。というより、たいていの人はそうしているんじゃないだろうか。
ネクラな人だけが、今のを壊してからでないと先には進めない、と深刻に考え込む。フェミニズムでも、共産党革命にしろ、原発反対にしろ、いつのまにかネクラな人たちに占拠されてしまう。この人たちが本当にやっていることは、世界平和か? 人々の解放か? 社会の調和の実現か? どうも、違ってみえる。そんなことは、本音のところどうでもいい。個人の生活のうっぷんを晴らしている。自分のレスポンスのトロさを他人のせいにして恨みとして返している。幼い正義にしがみつき、壊すことに執着することでそれを守ろうとしている。そんなところじゃないのか。
であっても、壊してから信者のひとたちがやっている運動がなんの啓蒙教化に貢献していないかといえば、している。なにもないより、人々の心を揺らしはする。選択の余地を作り、現状を見つめ直す機会を与えてはいる。けれども、わざと遅らせているようにみえる。いや、いつまでも実現しないようにもっていっているようにみえる。いつまでも自分たちがその運動ができるように。あるいは、いつまでも自分が正しい所にいられるように。
批判はしない。壊してから信者のひとたちも、その根底にある思いは愛だ。だが、もっと早い方法に尻軽に乗り換えた方が、ニガい思いもしなくて済むと思うので、私は、そっちを選んでいます。単なる好みです。
望む方にさっさと乗り換えられないこともあるだろう。ケースバイ・ケースだよ。と信じているなら、それでもかまわない。信じてる通りになるだけだから。ここは動かす前に壊さなければ、と信じるなら、時間をかけてそうすればいい。同じ土地に建設することにこだわればいい。どうしてもそれを使うことにこだわっている人の権利を無視して。
破壊してから信者のこだわりや執着は、新しいシステムを創造しようとしている人の邪魔をしている。しかして、真に創造的な人は、なんの障害とも思わず、新しいシステムだけを望んでわき目も振らず、それを創り始め作り上げるだろう。ならば、信者が邪魔しているのは、誰か。信者自身の創造性である。創造したくてたまらない己の側面の前にハードルを置いて、それのせいで前に進めないと嘆いているのである。前に進まなくていい理由にしているのである。創造性を発揮しない自分を正当化しているのだ。と私は思う。ーと私は、思う。ーーと、わたしは、思う。
理想を掲げながらその実現に向けての破壊運動そのもので社会が動いたことはない。明治維新も、共産主義的資本主義経済も、これから起こる地方分権も、クリンエネルギー社会も。これより、そっちの方が善さそうだと多くの人々の意識が集まった時、ドラスティックに移行しただけだ。特に日本は。
もっと自由で、もっと楽になる、と人々が本気で認めた時、動く。すべては、意識の具現化だ。破壊意識より、創造意識で社会は構成されている。破壊的運動の成果ではない。
壊そうとする活動以上にヒマなことはない。暇人の暇つぶしである。撞着にすぎない。あるいは、自分の存在価値を長らえさせて、給料を長くもらい続けるため。
もし、今の車にガタが来て、修理不能になったなら、本当に望む社会を作るのなら、いちいち壊さないで、
さっさと、次の車を買え。