たとえば、素敵な女性になろうと思い立ったとします。
そこがスタートラインです。
なりたいと言って迷っているなら、それはスタートラインの前でうろちょろしている段階です。
でも、思い立った。
化粧を塗りたくったり、おしゃれな服でごまかすのは、もうやめです。本当に素敵な女性になるんだ、と決心しました。
ダッシュして駆け出します。ところが実際には、スタートラインの幅が広いのです。いつまで経ってもスタートラインの幅の中を走っています。
もし素敵な女性なら、ここでブーたれるか? もし素敵な女性なら、ここで10円ケチるか? もし素敵な女性なら、ここで意地を張るか? もし素敵な女性なら、・・・。でも、本質的に可愛いコなら、なにをやっても素敵なんだろうな、といじけるか。もし素敵な女性なら、本を読まないだろうか? もし素敵な女性なら、自分の耳のおおきいことを気に病むか?
そういうことにイチイチ自分で答えを出して、さらに結果を観察して、もっと自分のイメージに合う答えを選び直していかなければなりません。と言っても、これは義務ではありません。自分の目的に合致しているか否かにすぎません。
僕らの人生の歩みは、まずスタートラインの前に来る前に長い長い助走があります。筒井康隆に『大いなる助走』という小説がありますが、あれは皮肉ではなく、たいていは助走で終わるものかもしれません。仮にそれを1000キロメートルとしましょう。そして決死の覚悟でスタートを切ります。ところが、いつまで走ってもスタートラインの幅の上を走るばかりで、ちっともスタートが切れないのです。その幅は10000キロメートルあるかもしれません。『助走より長いスタートラインの幅』題名をつけるなら、そうなるでしょう。けれどそこを越えて、コースに出たとたん、ロードの方が動き出すのです。自分はそこにじっとしていても、物凄いスピードで長距離を遥か彼方まで移動させてくれます。その速度は急加速でスピードを増します。
スタートラインを越えた地点とは、自分の内面、本質が、素敵だと認めたところです。その時はすでに老婆になっているかもしれません。けれども、どんなに若い娘よりも素敵なのです。瀬戸内寂聴を見よ。
どうでしょう、でも、助走の途中で寿命になってしまうかもしれません。スタートラインの上を走っている時に息絶えてしまうかもしれません。なんかいも何回も人生を繰り返す内に、上手に早くコースに出ることができるようになるかもしれません。
どこをどう行けばコースに出られるのか、そしてゴールとするところにたどり着けるのか。その青写真はちゃんと誰もが持って産まれてきます。そして、人生を経験するごとに、ここをこう行けば先に進めると鉛筆で上書きされていきます。どこをどう行っても、結局はたどり着くのですが、自分なりの行き方や近道が書き込んであるのです。ある年齢に達した時、以前に進んだところまで来ることでしょう。その後は手探りかもしれません。早いのは、先に行った人の内面(信念や認識)のマネをすることです。たいていの場合、他人の進んだ道を自分がもう一回進むに過ぎません。自分が進んだということが違うのです。
そしてどうしてもマネでは済まされなくなってくることでしょう。なぜなら、先人と自分とはちがう存在だからです。
けれども、同じ試験問題を何回も復習してはやり方を憶えていけば、いずれ時間差はあったとしても100点に至るでしょう。人生を極めようと思えば、同じ人生を何回か繰り返せばいいのです。『この道はいつか来た道』というフレーズがありましたが、きっと人は同じような人生を歩んでいるのかもしれません。この人生をよく観察し、高次の意識でやり直せばいいのです。若くして悟り、悟っている自分を否定しない人というのは、もう100回くらい同じことをやっているだけかもしれませんよ。(人間をやり始めて間も無いのに、この一回の人生で、すべてを極めよう、本当の自分に完全に到達しよう、そんなことを夢想すればノイローゼになってしまうかもしれません)
一生でも同じことです。よりよく生き直そうと思えば、これまでの人生を振り返り、また、高度な生き方をしている人をよく観察し、今ここからヴァージョンアップした自分で生き始めればいいのです。よく言われることですが、いつでもそこがスタートです。助走、スタートラインの上、本コース、そのどこでも本当は常にスタートなんだと思います。次にヴァージョンアップした自分を始めた地点が前の自分のゴールです。自分の境地をアップデートすればするだけ、スピードが増すことでしょう。
長い道のりだからと焦ると、かえって時間がかかります。長くかかるから面倒だ、と寝そべればもっと長くかかりることでしょう。助走も、スタートラインの幅も、気楽に行くんだ。楽しんで越えるんだ、そう思っている方が早いかもしれません。楽しんでいると、時計は過ぎるかもしれませんが、時間のない次元に行くので次の地点に到達する時間はかかりません。とはよく聞くことです。つまり、同じ時間の経過に、長い距離を進んでいるということです。
蛇足ですが、助走の段階にある人にまで、本コースを無理強いすることはありません。そんな所があることは知らされて構いませんが、全員が本コースに出れる準備がいますぐに整っているかと言えば、そんなことはないと思います。助走を楽しんでいる人、スタートラインの幅の上を楽しんでいる人、無限の段階があるのです。依存心の強かった時の僕は、自分が練習の助走の助走につこうとシューズのドロを落としているにもかかわらず、他の全員には、本コースに出ていて当然と不満を垂れていました。完璧を求めていました。
ともあれ、どこの段階にあろうとも、余裕で楽しみながら、なり、なり続けていくのだと僕自身は思っています。道のりを楽しみながら、このマラソンを走るんだ、と思うと、いつも思い出すのが、アラン・シリトーの『長距離走者の孤独』です。
そして僕がなるのは、ライ麦畑で遊んでいるちびっこを見守っているライ麦畑のキャッチャーを助ける、ライ麦畑でちびっこかな。孤独に遊んでいる。(つまり、とてもおもしろがっているってことです)
