トルストイでしたか、『幸福な家庭はどれも似かよって見えるが、不幸な家庭はそれぞれに不幸のおもむきが異なっている』という意味のことを書いていたのは。けれども、私の観察では逆である。不幸な家庭は、まるで同じであり、幸福な家庭は、それぞれにちがって多様性がある。
したがって私の説にしたがえば、トルストイのこの言葉は、皮肉かあるいは当てこすりかに該当するものである。しかし恐らく、多くの人々はそして特に『アンナ・カレリーナ』が書かれた時代には、彼の言説に共感する者が多くいたのではないかと思う。物、土地、財産、出世コース、身分・・・。これを所有し、こういうコースをたどれば幸福に到達する。と考えられていたからだ。それで、皆が同じ財産と身分であれば、皆が幸福になるという共産主義思想が支持されたのかもしれない。
現在の日本でもそう考えている人はたくさんいる。だが、冷蔵庫や自動車やクーラーを持っていることが幸福の階梯を登っているシンボルとはならなくなり、物欲ひとつをとっても幸せ感は多様化したかもしれない。自分なりの幸福を感じられるように細分化されてきた。さらに、物があふれてくると、何を買っても買うまでしか幸福感が得られないことに気づいてきた。究極の金持ちが貧乏な人から見ると、全てに満足し、極限の幸福感を得ているのではない、ということを知り始めてきた。彼らはただ貧乏人が憧れる対象として、もっと物質的幸福を得る目標がありうるというシンボルにすぎない。
そして本当の幸福を志向した時、まず始めに目が行くのが、自分を不幸にしている人や社会である。これをなんとかしなければ、自分が幸福になることはできないと思い始める。もちろん、すべての人が幸福でなければ、社会全体の幸福が完成したとは言えないだろう。けれども、他者を幸福にしたその後に自分が幸福になるというのは、悪循環が完成するだけなのだ。子供、夫、妻、上司、学校、政治、経済、教育、常識、集合意識・・・。すべてそれらの不幸が、自分を不幸にしているように映るのである。それも、あるちいさな視野からすれば正しい。まちがいなどないのである。
このままでは、いつまで経っても自分は不幸のままではないか、という不安が先なのか社会の状況が先なのか、いじけてあきらめて、自暴自棄になるか、逆境を跳ね返そうとして頑張るか、どちらかの方に努力を始めるが、幸福はいつまでも来ない。一日一歩、三日で三歩、三歩下がって二歩下がる、でどんどん不幸になっていくのである。おかしい。幸福をあきらめても、それを得ようと頑張っても、ますます不幸になる。実におかしなことが起きてくる。
そして、幸福になる108の方法とか、幸せの階段なることの書いてある本を読んだり、セミナーに出たり、なにかの教義を実践したりするけれども、ちっとも幸せになった気がしない。それで、何もかも混乱してきて「夫とはもうあと1秒たりとも同じ家の空気を吸いたくない」などと口走ったりするのである。不幸が自分にやらせることは、実に似通っているのである。猜疑心に走ったり、非難がましかったり、気掛かりばかりがあったり、心配で頭が一杯になったり、暗く落ち込んだり、混乱したり、否定癖が抜け切れなかったり、いがみあったり、鬱になったり、引きこもったり・・・。ドラマ仕立ての毎日になり、スリルとサスペンスな生活になり、そして時には、夫の態度と言葉のギャップに、ホラー映画でも観ているような驚愕を覚えたりするのである。熱心に子供の教育に精を出したり、ネグレクトしたり、どこか遠くに逃げ出したくていつもソワソワしている。家庭内離婚や家庭崩壊へと結末はだいたい同じだ。自分が他人に比べてどんなに不幸かを自慢して、一時の享楽に溺れて、慢性病に罹ったり、薬物に依存したり・・・。自分だけは、自分こそは特別だ。特別に不幸だ、と思いたがる。不幸な状態の人が皆そう思い主張するので、いろいろあるように見えるが、いろいろとはたいてい同じ、ひとつの理由だという事を表しているものだ。そしてそれらをやらせているおおもとは何かと言えば、不安なのである。無知と言ってもいい。
不安は、自己否定そのものだ。自分の正体が幸福そのものだ、ということを忘れてしまい、信じられず、そこから離れて深刻な遊びに身を投じるのが、自己否定なのではないか、と私は観ている。自己否定した状態で、幸福になろうとしても、それは不幸な状態を改善するはずがない。ここが、霊的進化の第一歩だという気がしている。自分のエネルギー状態が周囲に反映され、状況を作り出し、現実を固定する。このことを少しでも認めないと、その後は、続かない。『まず自分に忠実であれ。そうすれば、夜に朝が続くように』自動的になるのではないか。
まず、私は不幸だ、という思いがある。その思いは元々の私たちの姿である波動を遅く遅く、まるで個体であるかのように落としたものである。その状態であるから、幸福になりたいと言うのだ。そうすると、不幸の状態が拡大再生産される。このことは、理性を働かせることにばかり長けた、霊性つまりおのれの魂を目覚めさせないでいる人にとってはもう訳が解らない。自分がなにをどう思っているか(どのようなエネルギー状態であるか)を観察する意思を使わなければ、始まらないときているので、たとえて言うなら、眠っている人に眠っている自分を見ろと言っているようなものなので、無理もない話なのだ。
だからたいていは、よほどのショックがなければ、自分のこれまでの在り方を本気で見つめ直そうという気にならない。ここで、肉体を停止させてしまう人があるが、死ぬのは、いままでの自分の価値観やちいさな、こころを閉ざした、聞く耳を持たぬ在り方だけで充分だ。肉体を滅ぼすのは、もったいない話である。それが自分の品格の高さを表現するのなら、おおいにやった方が善いかもしれないが、精神的に行き詰まってという理由ではやらぬが宇宙全体のためだ。けれども、宇宙はそんな在り方すら許容している。個人の自己選択の自由は最大に認められている。煙草とかアルコールで徐々にというのも、・・・。
一方、幸福は、実に多様だ。非常に独創性がある。なぜそうなるかと言えば、高次の波動は、低次とちがって青天井だからである。どこまでもどこまでも昇っていけるのだ。少なくとも、この宇宙すべてを創造するくらいにまでなるのである。あらゆる幸福を、ーー恐らく、宇宙には不幸より幸福の方が圧倒的に多いーー、包括しているのだ。不幸を経験できる魂のレベルは、ある狭い周波数帯だけではないかと思う。たとえば、鉱物や植物や動物は、不幸を感じたりはしていないのではないか。星や銀河やブラックホールも、宇宙空間や各種次元を構成している存在たちも、こんなことをいつもいつもやってマンネリだ、などと嘆いているとは思えない。人間を卒業した宇宙人やマスターたちも、苦しみや不幸は感じていないのではないか。となると、ある意味、人間の中でもある時期しか通過できない不幸の経験は貴重なものであるとも言える。
家庭や仕事がどんな形態をしていようが、内面は幸福であり、幸福に焦点が当てられていて、物があろうがなかろうが、金があろうがなかろうが、幸せにはかわりないと、自己正当化でなく感じている。その周波数の帯域は、無限にあり、またどこまでも上がある。おのずと感謝の念がわき、また幸福だと感じる。すると、また感謝の念が強くなり、頻繁になっていく・・・。
そんなわけで、私には、不幸な家庭はまるで同じであり、幸福な家庭はそれぞれにちがって多様性がある。と思っている。
したがって私の説にしたがえば、トルストイのこの言葉は、皮肉かあるいは当てこすりかに該当するものである。しかし恐らく、多くの人々はそして特に『アンナ・カレリーナ』が書かれた時代には、彼の言説に共感する者が多くいたのではないかと思う。物、土地、財産、出世コース、身分・・・。これを所有し、こういうコースをたどれば幸福に到達する。と考えられていたからだ。それで、皆が同じ財産と身分であれば、皆が幸福になるという共産主義思想が支持されたのかもしれない。
現在の日本でもそう考えている人はたくさんいる。だが、冷蔵庫や自動車やクーラーを持っていることが幸福の階梯を登っているシンボルとはならなくなり、物欲ひとつをとっても幸せ感は多様化したかもしれない。自分なりの幸福を感じられるように細分化されてきた。さらに、物があふれてくると、何を買っても買うまでしか幸福感が得られないことに気づいてきた。究極の金持ちが貧乏な人から見ると、全てに満足し、極限の幸福感を得ているのではない、ということを知り始めてきた。彼らはただ貧乏人が憧れる対象として、もっと物質的幸福を得る目標がありうるというシンボルにすぎない。
そして本当の幸福を志向した時、まず始めに目が行くのが、自分を不幸にしている人や社会である。これをなんとかしなければ、自分が幸福になることはできないと思い始める。もちろん、すべての人が幸福でなければ、社会全体の幸福が完成したとは言えないだろう。けれども、他者を幸福にしたその後に自分が幸福になるというのは、悪循環が完成するだけなのだ。子供、夫、妻、上司、学校、政治、経済、教育、常識、集合意識・・・。すべてそれらの不幸が、自分を不幸にしているように映るのである。それも、あるちいさな視野からすれば正しい。まちがいなどないのである。
このままでは、いつまで経っても自分は不幸のままではないか、という不安が先なのか社会の状況が先なのか、いじけてあきらめて、自暴自棄になるか、逆境を跳ね返そうとして頑張るか、どちらかの方に努力を始めるが、幸福はいつまでも来ない。一日一歩、三日で三歩、三歩下がって二歩下がる、でどんどん不幸になっていくのである。おかしい。幸福をあきらめても、それを得ようと頑張っても、ますます不幸になる。実におかしなことが起きてくる。
そして、幸福になる108の方法とか、幸せの階段なることの書いてある本を読んだり、セミナーに出たり、なにかの教義を実践したりするけれども、ちっとも幸せになった気がしない。それで、何もかも混乱してきて「夫とはもうあと1秒たりとも同じ家の空気を吸いたくない」などと口走ったりするのである。不幸が自分にやらせることは、実に似通っているのである。猜疑心に走ったり、非難がましかったり、気掛かりばかりがあったり、心配で頭が一杯になったり、暗く落ち込んだり、混乱したり、否定癖が抜け切れなかったり、いがみあったり、鬱になったり、引きこもったり・・・。ドラマ仕立ての毎日になり、スリルとサスペンスな生活になり、そして時には、夫の態度と言葉のギャップに、ホラー映画でも観ているような驚愕を覚えたりするのである。熱心に子供の教育に精を出したり、ネグレクトしたり、どこか遠くに逃げ出したくていつもソワソワしている。家庭内離婚や家庭崩壊へと結末はだいたい同じだ。自分が他人に比べてどんなに不幸かを自慢して、一時の享楽に溺れて、慢性病に罹ったり、薬物に依存したり・・・。自分だけは、自分こそは特別だ。特別に不幸だ、と思いたがる。不幸な状態の人が皆そう思い主張するので、いろいろあるように見えるが、いろいろとはたいてい同じ、ひとつの理由だという事を表しているものだ。そしてそれらをやらせているおおもとは何かと言えば、不安なのである。無知と言ってもいい。
不安は、自己否定そのものだ。自分の正体が幸福そのものだ、ということを忘れてしまい、信じられず、そこから離れて深刻な遊びに身を投じるのが、自己否定なのではないか、と私は観ている。自己否定した状態で、幸福になろうとしても、それは不幸な状態を改善するはずがない。ここが、霊的進化の第一歩だという気がしている。自分のエネルギー状態が周囲に反映され、状況を作り出し、現実を固定する。このことを少しでも認めないと、その後は、続かない。『まず自分に忠実であれ。そうすれば、夜に朝が続くように』自動的になるのではないか。
まず、私は不幸だ、という思いがある。その思いは元々の私たちの姿である波動を遅く遅く、まるで個体であるかのように落としたものである。その状態であるから、幸福になりたいと言うのだ。そうすると、不幸の状態が拡大再生産される。このことは、理性を働かせることにばかり長けた、霊性つまりおのれの魂を目覚めさせないでいる人にとってはもう訳が解らない。自分がなにをどう思っているか(どのようなエネルギー状態であるか)を観察する意思を使わなければ、始まらないときているので、たとえて言うなら、眠っている人に眠っている自分を見ろと言っているようなものなので、無理もない話なのだ。
だからたいていは、よほどのショックがなければ、自分のこれまでの在り方を本気で見つめ直そうという気にならない。ここで、肉体を停止させてしまう人があるが、死ぬのは、いままでの自分の価値観やちいさな、こころを閉ざした、聞く耳を持たぬ在り方だけで充分だ。肉体を滅ぼすのは、もったいない話である。それが自分の品格の高さを表現するのなら、おおいにやった方が善いかもしれないが、精神的に行き詰まってという理由ではやらぬが宇宙全体のためだ。けれども、宇宙はそんな在り方すら許容している。個人の自己選択の自由は最大に認められている。煙草とかアルコールで徐々にというのも、・・・。
一方、幸福は、実に多様だ。非常に独創性がある。なぜそうなるかと言えば、高次の波動は、低次とちがって青天井だからである。どこまでもどこまでも昇っていけるのだ。少なくとも、この宇宙すべてを創造するくらいにまでなるのである。あらゆる幸福を、ーー恐らく、宇宙には不幸より幸福の方が圧倒的に多いーー、包括しているのだ。不幸を経験できる魂のレベルは、ある狭い周波数帯だけではないかと思う。たとえば、鉱物や植物や動物は、不幸を感じたりはしていないのではないか。星や銀河やブラックホールも、宇宙空間や各種次元を構成している存在たちも、こんなことをいつもいつもやってマンネリだ、などと嘆いているとは思えない。人間を卒業した宇宙人やマスターたちも、苦しみや不幸は感じていないのではないか。となると、ある意味、人間の中でもある時期しか通過できない不幸の経験は貴重なものであるとも言える。
家庭や仕事がどんな形態をしていようが、内面は幸福であり、幸福に焦点が当てられていて、物があろうがなかろうが、金があろうがなかろうが、幸せにはかわりないと、自己正当化でなく感じている。その周波数の帯域は、無限にあり、またどこまでも上がある。おのずと感謝の念がわき、また幸福だと感じる。すると、また感謝の念が強くなり、頻繁になっていく・・・。
そんなわけで、私には、不幸な家庭はまるで同じであり、幸福な家庭はそれぞれにちがって多様性がある。と思っている。
