私にとって、スピリチュアルは、ただの本質にすぎません。

”思う”の世界です。思念エネルギーに焦点を当てた観方です。

別に、たいしたことではありません。特別なことでも、奇妙なことでもない。

当たり前の、どこにでもある、誰でもやっている普通のことにすぎません。ですから、あれやこれやと儀礼的なトレーニングにいそしむことはありません。また、理論武装して攻撃する対象でもありません。

ただ、そう思う。根拠もなければ、現状からの予測しうる結論でもない。証明もできない。ただ、そう思う。その世界です。

なにも分からないことだけ、解っている。それでいながら、個をつくりだすことができる。絶対が創った相対の世界は、すべてのエッセンスあるいはエネルギーを含みながら、個でもありうる。全ての中に、無数の全てが内包されているにもかかわらず、そのことを想像しうることに驚嘆する。

今の状態に飽きたら、まだやっていない状態、これはたいてい高い次元ということになりますが、そこに移行するだけのことです。憧れの人物の歩んだ道を自分が自分なりに辿る。それがきついとか辛いと感じるなら、まだ、そうなるのに準備ができていない、今の状態に未練や執着がある。そんなところだと思っています。他人の自分より高次にいるのがねたましいのは、単に自分がまだ変わりたくない、変えない選択をしているのだと思います。より高度なスピリチュアルな言葉に反発をするのは、それが真実だと困る、自分が否定された、として自覚される恐怖がそうさせているのでしょう。

私は幸福で、お金にも困らず、自由で、義務もなく、平和で、静かで、なにもなく、なにもしてなく、悠々と飄々と生きている。ただ、それだけです。こうなってみると、生まれてこの方、ずっとそうだった様な気がしてくるから不思議なものです。気がしてくるどころか、苦しみとか苛々とか、そんなものが自分にあった記憶すらなくしてしまうから、質がわるいといえば質がわるい。ある種の、スピリチュアル的痴呆症、スピリチュアル的忘却です。以前の私なら、こんなことを聞けば、すかさず、『それは勘違いだ。科学的に言えば、云々』と理屈を垂れていたことでしょう。そうした理路整然とした発言の裏では、葛藤し、苦しみ、落ち込み、ハイテンションになり、忘れる努力をし、忘れたと自分に言い聞かせて、いつまでも心にこびりついていたにちがいありません。あの姿は自分であって、自分ではない。自分でなくて、自分だ。今はそんな風に思える。

憶えている、忘れる、思い出す、さらに忘れる。人生は、こういったプロセスをたどっているようにも思えます。さらに忘れた後は、もう自分で創っていくしかありません。けれど実は、このことは、あらゆる次元で起きていることかもしれません。全員がそれに参加している。

大事なことを忘れないようにしよう、と頑張るより、いつでも大事なことを思い出すことができ、より高度なことを創り出せるような状態でいた方が簡単で楽だ。これが要る、と思ったらすぐにそれを創り出せる状態。これが、abundance(豊かさ)なことかもしれません。おもしろいのは、その単語がabandon(捨てる)の近くにあるということです。放棄することが豊かなこととでも言いたげです。なにも所有していないからこそ、創り出せるのかもしれません。諦めは、高速の創造と友達なのかもしれません。こじつけですけど。

さあ、朝だ。今日は何をして遊ぼうか! 

いつもこんな風に楽しいだけになりました。できる限り難しい、いままでに到達しえなかった境地にいたるのが、最高の遊びだと思っています。ジャングルジムもパズルも難解である方が解き甲斐がある。それに似た心構えです。とても美しいことに気づこう、最高の美を創造しよう、腹の底から笑えることに気づこう、それを創作しよう、これが自分だと思える真実に気づこう、それを自分として生きよう。決意するでもなく、そうしてしまっています。どんどん忘れていってしまいます。残っているのは、・・・。