疑う。

あるいは疑うべきだ。

なんだか、そういう主張はこのごろしない。

『疑ってかかる』

何年か前に松本清張というひとのアーカイブで、

しきりにそういうことをおっしゃっているのを観て、

この人の主張の本意は、疑うというより、

よく観ろ。

ということではないか、と思った。

疑え、と言う人の多くは、

頭ごなしに信用する。言われているままに常識を受け入れ、

流され、事の核心を知らないでいる。自分で物事を見ずに他人の見方で納得してしまう、そういう態度を見直そう、

そう言っているように思う。

信用の反対の疑いが高じると、疑心暗鬼になるのかもしれない。

つまり不安にすっかり根差した見方をするということだ。

こうなると、なにも信用できなくなるかもしれない。

信頼の対局に置いた疑いに陥るのは、

通り一辺倒の見方だけをしているとも言えるかもしれない。

それで、それとは区別するために、柄谷行人という人が

『懐疑』という言葉をもってきて、あれこれ説明している文章を読んだことがある。

しかし、松本清張にしろ柄谷行人にしろ、要するに、言いたいのは、

よく観ろ。虚心坦懐な境地で観察しろということであって、

信用の対義語の猜疑を勧めているのではないと思う。

そして、実は、結論は決まっているのである。

信じている通りが観える。

ありのままに観よ、と言うが、

それは、虚心坦懐に観た時に、素直に感じてくる波動であって、

それをも、波動を感じることができるという信念のもとに観えてくる姿であろうと思う。

もし、裏があるに決まっていると信じているなら、

どこまで行っても、それが観えてくるのではなかろうか。

私は、疑うという言葉のかわりに、

観察という言葉を用いる。なにがどうなっているか、

よく観察する。

素直にその人や物事の波動を感じる。

そして、それが何なのか、描き、表現する。

まず感じ、その後に理性のお世話になる。

私の人や社会や物事に対する信念は、

それがすべて愛の波動の変容したものであるというものだ。

だから、いつでもそう観える。

そういう結論になる。どんなに違った様相にみえても、

材料は同じ。

それは、ある種の決めつけ、であろう。

馬鹿の一つおぼえであろう。

けれども、この信念、そして見方が、私にはとてもしっくりとくる。

だから、私がなにか他人に主張するなら、疑ってかかれ、ではなく、

すべては愛の波動の周波数のちがいであることをできるかぎり高い波動で感じなさい、ということである。

それを自分の真実にしないか、と誘うであろう。

たいていは、断られるか、受け入れられぬか、保留か、そんなところだ。けれど、他人がどんな見方を己の真実にするかは、おのおの任せられている。無理強いはしない。他人がなにを選ぶかよりも自分がなにを選んで自分としているかに心をくだいている。

いつも己に問うのは、本当にその見方で、幸せか? より調和しているか? すべてを賞賛の眼で見ることができるか? などである。

苦しみとか気掛かりとか、喉をひっかくような思いとか、イラつき、ムカつきなど持っていたくはないのである。

それは疑念でも信用でもなしえなかった。

それらを統合した所に、ぽつんとあった素直さが、あまりにありきたりの陳腐な、もう充分知っていると小馬鹿にしていた境地が、両方をつぶさに観察しえたのである。

信用もしなければ、疑いもしない。

ただ、なにがどうなっているか観て、それに対して自分がどうするか選び、その結果をまたよく観て、次に選ぶことをバージョンアップしていく。

そんなことを繰り返している。

端から見れば、そのへんの普通の人となんらかわりがない。

けれども、私の内面はとても静かだ。葛藤も手放した。

恐れや不安とは、ちょっと会話することがある。

そんな日常だ。なにもない。