良かったことに意識を向けるのか
悪かったことに意識を向けるのか

それは、目的によるのではないか。

たとえば、試験で良い点取ろうという段に、わざわざ低得点を取った時の気分を思い出すこともないし、他人のまちがいばかり探しても仕方がない。誤解答ばかりに眼を向けて、その感覚をつかむこともない。良かったことに意識を向けて、模範解答をなんどもなぞり、それを書ける感覚をつかんだ方が善いだろう。

しかし一方、とことん落ち込んでみたなら、どうしても失敗という経験が必要だと思うなら、思う存分、悪かったことをイメージし、そのトレーニングをし、うまく落胆し、上手に苦しみ、最高にもがき、あえぎ、苦しめば善いと思う。

どちらが簡単かといえば、後者の方だ。
誰でもやっている。意識は、下に落ちる方が容易なことは、誰でも知っている。ほっておくと地球の地場にひきずりこまれる。ネガティブなプロパガンダに呑み込まれてしまう。だからこそ、どうやって上げるかに知恵がいるのであろうと思う。多くの人が、その知恵をしぼっている。

どちらを選ぶか自由だ、選択次第だ、という言い方は時に残酷ではあるが、やはりその通りとしか言いようがない。両者に優劣をつけない時こそ、実は、前者を選ぶ。いや、両者を超越したところに至る。しかし、そこを選ばなくても善い。あくまで自分の目的に応じてそれぞれに選んでいる。この点だけは、創造の神すら侵害不可能だ。

悪かったことに意識を向けるのが悪いと見なすと、逆にそちらに向かいがちだ。しかし、向けたいのなら、いくらでも好きなだけ、向ければよい。ただし、それが、自分や世の中を直接に良くするための(最善の)手段だとは見なさない方が善い。理想とする社会、こうなりたいというポジティブな自己像。スピーディに変化させるのなら、初めから、そこ、にいた方が善い。と私は思う。

両者は単なる経験に過ぎない。自分をもっと深く見つめるまなざしの違いに過ぎない。そうして、自分がずっと、ここにいたことを知る。目的がそのまま選択だったと思い至る。その時、ネガティブなことも、そのまま愛することができるだろう。それをも優しさで包み込んでいた自分に気づくだろう。