何者かになりたくて、たとえば詩人とか絵本作家とか、私はここであれこれ書いているのか? いや、すでにやりたいことをやっていて、その円が広がっていっている最中だとわたしは観ている。おもしろいからやっている、ただそれだけだ。
どうして、これこれになりたいとか、こういうことをやりたいとか、仕事くださいなどと口に出してまで言うのですか? 文字にして貼り付けるのですか? それがどんなに自分の夢を遠ざけ、押しやることか、知っていますか。なにかのためにこれをやる。そのためにこれをやって、そのためにこれを考える・・・。いつまでもいつまでもゴールの前に物を置いていく行為なのです。
このごろでは、5次元に行く、という言い方もよく聞きます。それは、いま5次元にいないという宣言に思えます。5次元にいないなら、5次元でない。それが永遠に再生産されるだけのことですよ。もし本当に5次元にいたければ、いますぐそこにいればいいんです。それだけなんです。
すでに、そうだと思い込むことは、なにか傲慢な感じがするかもしれない。なってもいないのになっただなんて、と非難したくなるかもしれない。けれども、そうしていると、いつまでもなれないものなんです。なるから、なる。そういうことなんです。為せば成る。と昔の人は言った。まず、なる(為る)。しかる後になる(成る)のである。成るが追いかけてきて、自分に重なる。そういうイメージだ。
何者かになりたいと嘆くように言う人の、成るの意味をたいていは経済性とか名誉と同義語にしてしまっている。世間的な意味にすり替えてしまっている。もし、そんなもので自分が何者かになったと錯覚できるなら、私はあなたに1円あげましょう。それから、心から褒め称えましょう。惜しみない賞賛を送りましょう。でも、なっとくしないでしょう? なにによって、自分が成ったと知るのですか。
『わたしはすでに、成ると言っている者そのものだ』
この思い、この宣言だけが、私をわたしたらしめているのではないか。私にはそう思えます。周囲がどんな理屈をつけてきても、様々な不安をいざないどんなに私をわたしから分離させようとしても、私がいま現在、成った自分としてこの瞬間を楽しんでいる。その事実、その感覚、その実感だけは消せない、否定できないのですよ。あなたを嘲笑し小馬鹿にする人をよく観なさい。あなたが嘲笑され、小馬鹿にされたのではありません、かれが己の卑屈さや愚かさを表明しているだけなんです。自分が自分でないことが不甲斐なくてしょうがないから、かれはそういう態度をとっているだけなんです。そして、成った自分をさらに上回っていく、どんどん円が広がっていく。それが、私がわたしに成るということだ、と私は思う。
いつまでもいつまでも5次元への階段の同じところを上がっては、また下がってまた上がりますか。いつまでもいつまでも、何者かになりたいと言って、いつまでもなりたがっている自分を再描画しつづけますか。それを無間地獄というのですよ。

詩、書いて食ってるやつ、1人。絵本書いて食ってるやつ、ほんの数人。あとは、ジャンク、エロばなしで食いつないでいるもんだ。
中原中也が生前、浮かばれたか? 宮沢賢治は? 金子みすずはどうだ。樋口一葉は?
立派に詩人であり、作家ではないか。
時代がちがう? のぼせあがるな。ならば、大西巨人を見よ! あの赤貧の中でも、堂々と作家をやり抜いているではないか。
彼らはただただ、自分自身であっただけではないか。それが、あなたにはやれぬというのか。それこそ、傲慢の極みである。
たかが、経済性が伴っていないだけで、自分を否定するのは、おやめなさい。今の時代、逆に金を稼がないでいることの方が難しい。知名度が上がらない方がおかしい。いいですか、このブログで上位にランキングされている人の方が、現役時代の太宰治よりはるかに知名度が高いのです。永井荷風より谷崎潤一郎より、ドストエフスキーやショーロホフより何百倍も稼いでいるのです。たかが金や人気で自分が何者かになったと錯覚しているなら、それらがなくなった時、何者かでもなくなるのか? もしそうなら、あなたは、金と名誉の亡者であったのだ。
私がわたしであること。これはなんとしても楽しいことだ。周囲が、表面がどんなに変わろうが、変わらない。自分が変わろうと思う以外には変わらない。動揺もしなければ右往左往もしない。ますます自分の中心に戻って行くだけだ。より中心にい続けるだけだ。今の私にはそれしか興味がない。人の上に立つのも、もう飽きた。金を稼ぐのも、名誉を追うのも、すべてやり尽くした。今世でも、一通りなぞった。もう、充分だ。
自分の好きなことを自分の好きなことだけやって生きれたらなあ。それには、自分の好きなことで金を。この考えが、好きなことをやるために好きなことのようなことをやって好きなことをやらないでいいように遠ざける最も効果的な方法だ。そうしてそいつの好きなことは何かと観ると、ただダラダラ怠けていたい、愚痴っていたい、アゴで人をこきつかいたい、そのくらいの志だ。まったく、ていたらくの勤勉者なのだ。愚図の達人なのだ。「自分は、金のためにやっているんじゃない、自分の世界を守るために」などとほざく者にかぎって、他人を見る時、金で人格を量るね。結局は、金が欲しいのだ。赤ちゃんみたいなエゴのままでいるために。
好きなことなら、経済が伴おうが、伴うまいが、すでにやっているだろう。すべてをなげうってでもやり始めるだろう。もう、そうで在るだろう。ちいさな萌芽はあるだろう。それがどんどん成長していっているだろう。だから、何者かになりたいなんて言うな。もうやっている。それが事実だし、別のものをうらやましそうに眺めている限り、絶対にやれない。あれをやるために、まずこれをと考えている限り、スピードが遅くなる。自分の現実に、望む現実がやってきて重なるスピードが。
実際、私は前にも書いたことがあるけれども、詩人や童話作家になろうとして頑張ってきたということはない。おもしろそうだ、と直感した方に進んできただけだ。いまはこういう新しいメディアがあるので、それを利用している。ただ、それだけだ。このメディアが既存のメディアより劣っているとか低いとは全く思わない。むしろ新しい可能性があると思っている。テレビや映画や書籍を超えるのは、時間の問題だと観ている。まずもって、人と人との出会いの核融合を起こしているとは思いませんか? 驚異的なスピードで融合し、魂の上昇をうながしている。これまでは十年かかって出会っていたのが、たった何日かの密度で集約できるのだ。相互作用のスピードが半端ではない。自分で自分をプロデュースし、自分の価値観に責任をもって、経済性をつけたければつけ、宣伝をし、分かち合う。資本主義の制約も、そこに働く人の査定を受ける必要もない。まったく自由に表現できる上に、トラブルの責任さえ自分でとれる、今世紀初頭に発明された進化したメディアだと思う。これはおもしろい、と思うもののひとつだ。
それはともかく、長年、私が切望したのは、自分自身になることだけだ。もっと自分になることだけだ。
とことん、とことん、私がわたしで在った。偉大なる芸術家とは、そういう人のことを言うのではないですか。そして、何者にかになりたいと、そう望む人は、そういう人になりたいのではないですか。ならば、こう思って生きましょう。
私はすでにわたしである。