「どうしたんですか、お爺さん」
「あ、いや、なに」
爺さんこのごろ、ライフワークのツツガムシの研究にも手がつきません。気もそぞろでボーッと庭にたたずんでいます。
「なにもこんなに近くに家を建てることはなかったんじゃ、軒先が重なっておる」
「あいです。こんなに広く土地は開いてるんですから」
ふたりはそう言って、うらめしそうに屋根をみあげます。
越してきた当初はまだ隣の家の間には人が通れるくらいにあいていたが、そのうち縁側が張り出してきて、出窓がつき、ひさしが出っ張ってきて、しまいには屋根までかぶせられ、なにかアメーバが虫を捕食してるような按排になってきたのでした。爺さんと婆さん、深いため息をつこうと吸い込んだ空気を、隣に気取られぬよう、さらに吸い込みます。

そうこうしている内に、隣のせむし婆さん時機を見たのか、近所のよしみを利用して『とうちんこう』なる妙薬を高値で買わせに来るようになったからたまりません。
「はじめに言うとくけどな、これネズミ講やないで。くれぐれもまちがえんといてな」
爺さんのいとまを見計らい、勝手に入って来て、どっかり腰を落ち着けせむしの婆さん、迷惑そうにしている婆さんに向かってこう言います。
「勝手口から勝手に入ってきて何が悪い。悪いンやったら、名称変えろや。うわははは」
袂からとり出した虎の巻を見ながら、お調子をとります。
「ワシは今はこうして腰の曲がった、誰が腰が曲がったじゃ、ばばあでござりまするが、誰がばばあじゃ、由緒正しき出。お江戸を立って二十里上方、相州小田原、一色町をお過ぎなされて、青物町を登りへお出でなさるれば、 欄干橋虎屋藤右衛門の娘、気立て好く、この上なくういういしいばばあでございます。誰がばばあじゃ。
ぁさて、元朝より大晦日まで御手に入れまする此の薬は、昔、珍の国の唐人外郎と云う人、我が朝へ来たり。帝へ参内の折から此の薬を深く込め置き、用うる時は一粒ずつ冠の隙間より取り出だす。依ってその名を帝より「とうちんこう」と賜る。即ち文字には頂き・透く・香と書いて透頂香。只今では此の薬、殊の外、世上に広まり、方々に偽看板を出だし、イヤ小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと色々に申せども、平仮名を以って「ういろう」と記せしはワシばかり。ーーここから、ちょっと中略じゃ。
イヤ最前より家名の自慢ばかり申しても、御存知無い方には正真の胡椒の丸呑み、白河夜船、されば一粒食べ掛けて、その気味合いを御目に掛けましょう。先ず此の薬を斯様に一粒舌の上に乗せまして、腹内へ納めますると、イヤどうも言えぬわ、胃・心・肺・肝が健やかに成りて、薫風喉より来たり、口中微涼を生ずるが如し。魚・鳥・茸・麺類の食い合わせ、その他万病即効在る事神の如し。アトピーから、ヒステリーから、はては癌、脳卒中に至るまで、あとかたもなくさらーっと消え去ること夢のごときなり。キレる少年もどこぞやら。
ぇさて此の薬、第一の奇妙には、舌の廻る事が銭ゴマが裸足で逃げる。ヒョッと舌が廻り出すと矢も盾も堪らぬじゃ。そりゃそりゃそらそりゃ、廻って来たわ、廻って来るわ。アワヤ喉、サタラナ舌にカ牙サ歯音、ハマの二つは唇の軽重。開合爽やかに~、なまむぎなまごめなまたまご。なまむぎなまごめなまたまご。なまむぎなまごめなまたまご。・・・・。
おう、そうじゃ、そう言えば、米と麦と卵が切れておった。ちょ~っと都合つけてくれんかの。畠のにおいがくそうての。それから、そっちの裏庭の鶏がくさくて、鳴き声もたまらんなあ」
またですか、という渋った顔をした婆さんに、せむしの婆さん食ってかかります。
「なんや、ひがいしゃぶった顔をしおってからに! ネズミ講やないゆうてるやろ。たったの銀三分やないか。高いちゅーんなら、よそに売ったらええがな。銀六分で売ったら、損得なしや」
「うちとこ、持病もないですし、いたって健康でございまして」
「アホか。これからや。いまおぬしの腹の中には病気の種が育っておる最中や。目に見えンだけや。病気に気づいた時にはもう手遅れなンや」
「なんもありません」
「それはおかしい。頭が狂っとるのやないか?」
なんぞ、おかしいところはございません、と言いかけて婆さん、いや、このごろ自分がおかしくなってきたような錯覚にとらわれはじめます。
「そんなお金、どこにもありません」
「だまされんぞ。そんな虫も殺さぬおとなしそうな顔をしておるが、裏ではなにをしておるか、なんでも知っておるんやで! ウエッヘッヘッヘ」
わめくだけわめいて、せむし婆さん、ぴょんとカマドウマが跳ねるようにお婆さんの背後に着地すれば、いきなり着物を下からまくしあげ、腰巻きをずりおろした。
「ウエッヘッヘッヘ」
よだれを垂らしながらせむし婆さん、奇っ怪な笑い声を立てます。
「ようけ肥えとるの。いったい、なに太りかの、ひゃーひゃっひゃ」
ビタ、ビタっと、ところどころ逆むけしてアバタのある黒ずんだ皮膚の、まるでニワトリのような細く尖った手でデン部を叩き、
「人間、黒いところを全部えぐり出さんことには、自分がようけわからんもんやけんのぉ。ほら、どこに隠しとるンや、金、出せ。わしゃあ、おまいさんのために、なんでもやっとるけえの」
言いながら爬虫類のようなベロで尻をなめ回します。そのあまりのキショク悪さに婆さん、阿鼻叫喚の雄叫びをあげます。ちょうど裏の畠におった爺さん、悲鳴を聞きつけて、クワを放り出し、あわててかけつけた。
「なんてことするんだ!」泡をふいて卒倒していた婆さんを抱き起こしながら、キッと睨みつけます。
「なんじゃ、その目は」ドロドロに濁ったマナコでせむしの婆さん「あ~、いやだねえ、善良な市民は。なんでも自分だけがひがいしゃみたいに思い上がって。おまさんたちこそ、この『とうちんこう』をたしなむべきじゃ。そうやってすぐキレるのは、栄養が足らんからじゃて。自分に足らんもんがあることを知らねば、なにごとも改善には向かわんもんじゃ。おまえさんがたには、ちーっとココが足りんわ、ワッハッハ」
せむし婆さん、自分のおつむをカギ爪でちょんちょんと指します。
                 *
それからしばらくして、クワの歯が折れたというので爺さん、川向こうの小さな村の鍛冶屋に行くことになりました。
「やあ、こんにちわ」
道々、久方ぶりに会った知り合いに声をかけますれども、誰も彼も暗い顔で目をそむけます。
おかしいな、と思っておりますと、古くからの知人が周囲を察しながらそっと近づいてきて、こっそり耳打ちしてきます。
「おまえの悪いうわさを聞いたけど、ほんとうか?」
「なんだそれは。初耳じゃ」
「そうか。花咲さんが、そんなことするわけないと思うとったよ」
どうやら、隣のせむし婆さんが、ほうぼうであることないこと言いふらして回っているようなのです。要約しますと、ズが高くて威張り腐っている。そういうことのようです。不親切で、なんの協力もしてくれない。自分ではなにもしないのに、苦情ばかり言ってくる。詮索はするが、他人の事情などまったく考慮しない。ちょっとしたことでわけのわからない言いがかりをつけてきて、気が狂いそうだ。もう夜も眠れず、神経症になった、そういうことらしいのです。
それを聞いた爺さん、どよんと重苦しい気がしてきます。
「まあ、あんまり気を落とすな。人の噂も七十五日と言うではないか」
知人の慰めも、爺さんにはむなしく響くばかりです。

ドヤドヤドヤ。
ちょうどお爺さんが村に出かけている最中、婆さんが炊事をしております。と、なにやら地面を踏みならす物々しい音がしたかと思うと、腹の底から出てくる厳めしい声が聞こえてきます。
「こちらは、花咲と申す者が住む家か!」
「はーい」
なにやらただごとではない雰囲気に、婆さんあわてて入り口にでます。戸を開けると、そこには黒っぽい服に身をまとった数人の役人が立っておりました。
「はい、花咲と申しますが、なんぞ、ございましたかの?」
「おまえのところには、いま重大な嫌疑がかかっておる」
「けんぎ、と申されますと?」
「しらばくれるな!」
ひええ。
婆さん、すてんと腰から土間に落ちます。
「お隣のかよわき爺さんと婆さんが申すには、そちらは、夜ごと騒ぎ立て、安眠を妨害し、それを指摘すると、陰険な目でにらみつけ、さらには大声で威嚇するらしいの。またそれに加えて、お上のわるぐちを言いつのっておるらしいではないか」
「そ、そのようなことは決して・・・」
「うそを申すか!」
役人のうしろに隠れたせむし婆さん、にやにや笑いながら顔を出します。
「こんかいは、証拠不十分ということで、厳重に注意するにとどめておいてやるが、次には容赦せぬぞ、わかったか!」
ひえええ。「わ、わかりもうしました」
「ちなみに、おまえたちがあらぬことを言っておらぬかどうか、この婆さんに監視役を頼んだ。いいな!」
そう言い、しばらく、ぎろぎろした鋭い目で釘を刺すと、役人は帰って行きました。婆さんは、怖いやら不条理やらで、もう涙が出て涙が出て、しかたがありません。丁寧にお辞儀をして役人を見送ったせむし婆さん、婆さんの方を向き直ると、すました顔で言った。
「そういうことでな、ワシらお上のお墨付きをもろうたで、うえっへっへっへ」

爺さんと婆さん、昼間お互いの身の上に起きたことを知り合い、涙ながらに抱き合いました。

ふたりと一匹、無何有の郷だったのが、すっかり荒らされたかんがあります。睦まやかな雰囲気はガタガタに崩れてしまいました。
自分のどこに非があったのか、と爺さん頭をかかえます。気にせんどこ思ても気になります。裏庭に突き出た石に腰かけて反省することしきりです。なんの因果か、それとも戒めか。暗い方、暗い方に考えが及びます。爺さん、ない頭をどんなに捻っても答えが出ません。思わずナンマイダと唱えてみても、隣の婆さんの態度はいっこうに変化するようすもなく、いやましひどくなっていくばかりです。
喉をひっかくようなじりじりと重苦しい日々のある昼下がり、このごろすっかり日課のようになった、裏庭の石で物思いに耽る爺さんの裾をくわえて、シロがぐいぐい引っ張るではありませんか。どうしたというんじゃシロ、おお、そんなに強く引っ張るでない、などと言いながら爺さん、他に行くところもないのでゆるゆる従います。畠の隅に到着するとシロ、そこを前脚でひっかき、激しく吠えたてます。
「ワンワンワン、ココ掘れワン」
「なんじゃて、ここを掘れとな」
「ワンワンワン、ココ掘れワン」
爺さん、なんのことかわからず、けれどもせっかくだから、修理から戻ってきたばかりのクワの具合をためそうと掘り始めます。えんや!とっと! えんや!とっと!
こは、いかにしたことか!
いやあ、出るわ出るわ。大判小判がざっくざく。その眩しさに目もくらまんばかりです。
爺さん、腰を抜かさんばかりに畠に尻餅をつきます。