(どうしたんです、おじいさん?)
日もとっぷりと暮れ、涼風が窓から流れ込んでくる時分。押し殺したような声で婆さん問いかけます。鼻と溜めの混じった息で、爺さん答えるでもなく答えます。連れ添ってからこの方、相方のそんなムズかしい声を聞いたことのない婆さん、心配でたまりません。おもわずいつもの調子で呼びかけます。
「ほんとに、ど」
その瞬間、カタンと物音がして、ヒソヒソヒソーー。爺さんと婆さん、ふたり同じ方向に顔を向けます。ーーイヒヒヒヒ。ウフフフフ。
まっくらな中で婆さんが顔をこっちに向けたのが、分かります。
「あい」
的を射たりと婆さん、爺さんにうなづきかけます。こちらが音をちいさくすると、隣はさらにちいさくし、もっと下げると、もっと下げるという具合に、おとといより昨日、昨日より今日、と半分半分に声を小さくちいさくしてきて、川向こうの畑のくつわむしの外した音すら聞き分けられるくらいに家の中が静まり返ったものですから、お隣の立てる聞き耳の音がますます大きく感ぜられるようになったのでした。はーふー、はーふー。いひひ。
(ーー今夜は、もうやめじゃ)
爺さん、ちょっと不貞腐れたように布団を顔まで引き上げます。
(あい)
しばらく、しーんとして、こちらにむきつけられている貪婪な念だけが、ずいずい迫ってきておったのですが、なんじゃきょうはもうやめかの、ざんねんじゃのなどとささやきあう声がします。奥の方に引っ込む物音がして、人の気配がなくなりました。
(では、ふたたび)
(あい)
安堵したふたりが言葉を交わしたとたん、ガタ、と隣で音がします。思わずふたりは顔を合わせて呆れ果てます。青白い月明かりがふたりの瞠った目を照らし出します。
ちっ! きづかれた。
おまえが音を立てるから。
だって、期待で胸の興奮が抑えられずについ・・・。
押し殺した声で会話が聞こえてきます。なんと、のぞきをやめた素振りまで装ってのぞいていたのです。その時です。うおっ、うおっ、うお~ん。シロが遠ぼえを始めました。それはまるでジャズのリズムを刻むがごとく明るく楽しく、それまでの険悪なムードをかき消すかのようでした。もちろん賢いシロのこと、大好きなふたりが誰にもジャマされずにポエムな時を過ごせるよう自分の声で幕を作り守ろうとしてのことだった。ところが、
ガラッ! 
「なにごとじゃ、なにごとじゃ!」
隣の婆さん、血相を変えて家を飛び出します。爺さんも急いで上着にそでを通し庭にかけつけます。
「こら! 犬。うるさいでよ」
「おお、シロ、どうした、よしよし」
「どんなしつけをしとるんか、こら! うるさいで、隣の声が聞けんよって!」
婆さん、ひどい剣幕で食ってかかります。それを聞いた爺さん、よわよわしい声で、一度は言いよどんだ言葉を発します。
「うちは、静かすぎておちおち眠れません」
「なんやて」それが何を意味しているか察せられてカァーっときた隣のせむし婆さん、首をにゅーっと伸ばして悪態のかぎりをつきます。「こっちが、お隣の安眠をおしはかって、息を殺しておるというに、それを悪い言うンかこら、ええ?」
「しかし、聞いてはるでしょ」
「それは、・・・それは、こっちが静かかどうか確かめとるンやないかい!」
「それにしても」
「聞いてるンやないで、聞こえてくるんや」
じーっと爺さん、隣の婆さんを見つめます。すると婆さん顔に無数の皺を寄せごまかし笑いを始めます。
「なんとしてもワシら好奇心が旺盛でよっての、ウワハハハ」
かと思おうと、急に顔をまっかにほてらせ憎々しげに言い募ります。
「おんしらも、そうじゃろ。したことあるじゃろ、それなのに、他人はとがめるん、だ! 自分のことは棚にあげて。へー。まさか、おんしは、他人の詮索をいちどもしたことがないと断言する気かの? 第一、こっちがのぞいとるのをなんで知っとるのかのぉー。あーあ、他人の失態にはきびしいんだ、あー。正しいことばかり押し付けてぇ。いーけないんだ、いけないんだ。せーんせーにいうーとーこー。わしら隣の住人の健康を気づかっとるだけやのにぃー。なんでわかってくれんのじゃ。仲良くなろうおもてやっとることじゃのに。批判ばっかりして、自分の意見を言ったらどうじゃ、ええ? おまいさんには、どんな将来構想があるんじゃ、言うてみい。ないんじゃろ、ええ、ないのに批判ばっかりしおって、このお馬鹿チャンめが。せーっかく仲良くしようとしてたのに、ガッカリじゃ。あー、もうバカバカしい。なんでも知っているようなこと言ってからに。知ってるつもりが一番きけんなんじゃ。なーんも知らんくせして決めつけて。おんしらも、肉も食えば酒も飲むじゃろ。お万個とて、イヒヒ。聖人ぶったことを言うでない! 同じ人間じゃろ。偉そうなことを言うて。あー思い出したわ、おんしらみたいな手合は、だいたいよく言うの、祈っとりさえすれば世の中よくなるてな。ほー、ほしたら、どこがようなんたんかのぉ?」
「祈るんは別に世の中をよくするためではないでしーー」
「やかましいわ! この危険思想者めが。どこぞの宗教にでもかぶれとるのかの! キモチわるっ。そういう、これさえしとったら、万事解決みたいな思考停止者がおるから、為政者にだまされて、いいようにこき使われるんじゃ、わかっとるのかの、このボケ!」
だんだん話がすりかわっていきます。
「なんもせんで世の中平和やいうて、そんなん妄想やで。不断の努力によって守られとるンや。お上やら役人ほど、注意して見とかなあかんもんはないんやで。裏と表、おんなじでなくてはならんよってな。だいたい人間っちゆーもんは、なにをしたって自由じゃろ? それとも、おぬしは、他人の自由を束縛する気かの? ほー、そんな権利がどこにあるちゅうんじゃ、えー? そういうことやから、自由を守るために戦わねばならんようになるんや。そうか、そうか、そういうことかいな。敵か? ワシたちは敵なんじゃな。あーあ、そうか、なるほどな。ーーそんならこっちにも、考えがある」
しゃがれた声を張り上げてキッパリそう言うと、ぷいっと顔をそむけ、隣の婆さん、家に引き帰ります。
以来、湯気が家に入ってきただの、煙が洗濯物を臭くしただの、庭に埋めた残飯がにおうだの、畠にまいた肥料がくさいだの、部屋を歩く時畳のきしむ音がうるさいだの、タンスの開け閉めがうるさいだの、それはそれは何かにつけてごてつき、その度にお詫びの野菜や肉や塩をせしめていくのでした。
「まあ、せっかくくれるちゅーもんを断るのもなんやしの。本当は、これくらいじゃ許すことはできんのじゃが、今回だけは特別に許したろ」
あまりの執拗さに、さすが人の好い爺さんも中腹で物も言えず呆れ果て、フイとうしろを向いてしまいます。その様子を見てせむしの婆さん、こう言い捨てます。
「見ろや。とうとう馬脚をあらわしたによってな。本性、むきだしや」