チャネリングなんて、べつにやりたくもないし、憧れもしないです。熱心になにかを書いたり語ったりしていると、ふっと何かが降りてきたような気がして、自分では思いも寄らないことを口走ったりすることはありますよ。でも、そんなことできなくたってなに不足なく生きていけますし、できたからって、その言葉が自分の責任だと思えないなら、ゴミと同じですよ。これは自分の言葉だ。おのれの意志だ、おのれの結果だ経験だと自信を以て思えないなら、なんの力もないし、なんの効果もないのではないですか。ですから、どんな言葉だっていいんです。これが、おのれそのものだ、と表明できる信念であれば。そしてうまくいかなければ、よく観察して、信念そのものを育んでいく。
信念は、信念と言っている内は、個人的なものにすぎません。究極は、ただ、在る。ただ、存在している、とさえ言えない状態なのでしょう。すべてが調和しているとしか思えない状態。つまり、ひとことで言えば、愛ということです。けれども、これが愛なんじゃないか、という信念しか、いまの段階の私にはないんです。けれど、きっと絶対の愛、超越した愛はあるのでしょう。できるかぎりそれに近づく思念(周波数)をわがものとしていく。それが、信念を育てるということではないかと思っています。信念は育てるものだ、という信念、この柔軟な信念こそ、『確固たる信念』と言われているものではないかと私は信じています。
信念は、信念と言っている内は、個人的なものにすぎません。究極は、ただ、在る。ただ、存在している、とさえ言えない状態なのでしょう。すべてが調和しているとしか思えない状態。つまり、ひとことで言えば、愛ということです。けれども、これが愛なんじゃないか、という信念しか、いまの段階の私にはないんです。けれど、きっと絶対の愛、超越した愛はあるのでしょう。できるかぎりそれに近づく思念(周波数)をわがものとしていく。それが、信念を育てるということではないかと思っています。信念は育てるものだ、という信念、この柔軟な信念こそ、『確固たる信念』と言われているものではないかと私は信じています。
