人生は、道にたとえられます。
旅にたとえられることもあります。
けれども、それはどこにも行かない旅でありましょう。
どんな頂点にも到達しない道のりでしょう。
なぜならば、ここにいることが、人生の旅だからです。

ここまでは聞いたことのある人が多いにちがいありません。
では、ここにいる旅とはどんな旅なのか。
それでも歩む道とは、どんな道なのでしょう。
内的な道程。
霊性の上昇とか認識の高度化と言ったりもします。

ここまでは、やはり聞いたことのある方が多いでしょう。
さらに、この内的な道程を進んだり、
あるいは階梯を登り進化するとは、
中庸だ、ゼロポイントだ、統合だ、昇華だ。
そんなふうに言いますね。

さて、この中庸、ゼロポイント、統合、昇華。
これは1回だけ生じればそれでしまいか、と言えば、そうでもない。
統合の統合。さらにその統合。
まるで、トーナメントを勝ち上がるがごとく、
あるいは繰り返される企業の吸収合併のごとくに包括されていくのです。

そうやって一個の人間あるいは魂が複数の格を内包した姿になっていくのです。
このことを先人は、人格が円(まる)くなると表しました。
円満さを帯びた人柄とは、要するにさまざまな人格を認めることだと言えば、
世間的な意味で言っても納得されるかと思います。

ところがこれは、なんだっていいとか地球が亡んだって知ったことか、
という、投げやりで無関心な態度とはまったく異なる波動のレベルなのです。
確かにそういう開き直った態度は、どの人格や人間性も優劣なく愛されるものだ、
それぞれの性質は使いどころがある、とか、地球が滅ぶことさえ許した上で、
それでも存続を熱望しているとするのと、よく似てはいる。

しかし全く異なるレベルなのだ。
けれども、その投げやりな態度を示す波動さえも滅ぼさない。
大切にするべき教師なのだ。
かれらはすでに滅亡している。
そして、滅亡がすでに用意されているからこそ、存続や発展が光を増すのである。

存続や発展が善くて、それ以外は悪で、亡くなるべきコンセプトではない。
それは、滅亡が善で、進化発展が悪だとして滅ぼそうとするコンセプトの担い手となんらかわりない。

あくまでも統合を統合し続け、
中庸の中庸、そのまた中庸に居続けるだけなのだ。
これは、『いい加減』が誤解されるように、適当にやることではない。
『適当にやる』のは、いい加減にやることだと誤解されることとも違う。
最高の認識で実行された、最も効果的な方法だ。

目的を完膚無きまでに機能させる、
思考と言葉と行動だ。
より、これを発見し、そして
創造していく日常の生活こそ、
われわれのどこにも行かない旅の本質である。

こんなことを言うと、必ず、「そんなこと言うけど、具体的には?」
と怒って質問する者が出てくる。
まず、この質問はすばらしい質問だ。
次に、この質問者は、どんな具体策を提示しても実行することはない。
しかして、こういうしかなくなる。
「自分で考えよ」

愛をもって愛からそう言うしかない。
けっして、罪を相手に投げつけるのではない。
人間の魂は、服従を嫌う。
もし、それを変態的に好んでいるなら、魂を忘れている。
自分で自分の自信を踏みにじっている。

どうしても1から自分で見て聞いて経験して、納得して、検証して
これはこうだ、と思いたいのだ。
だから、自分で考えるしかない。
考えると言っても、これは、理性で全てを網羅しようとしても無理だ。
あらゆる思考で、おのれを、そしておのれたちを見つめるのである。

なんでも、ありとあらゆることを動員して、おのれを見つめるのだ。
感情、感覚、夢、知恵、理性、悟性、直感、勘、知識、経験、概念、概念枠組み、伝統、心理、思想、価値観、信念、・・・。
そうしていく内に、より高い波動こそが共通の真実であることに気づく。
軽く、精妙で、明るく、笑い、喜び、鷹揚、容認、感謝・・・。

意図してそれを選ぶに至ることが統合なのだ。
だが、これも必ずやらなければならないことではない。
自分でそう選ばない限り。
ぐるぐる同じレベルを巡る旅を続けたいなら、それも構わない。
それに飽きたら、
ここに居座り、よりここに、より中心に中心に還っていく旅にかえても構わない。

人生が旅などというのは、
そのくらいのことなのだ。
そのくらいの余裕があったとき、
かえって問題は問題でなくなるから不思議なことだ。

こうすれば解決する。
ああすれば解決する。
行政や教育に、こんな考え方を導入すれば解決する。
やっと悟りかけてきたころ、
そんなことを僕もよく言ったものだ。
たしかに、僕自身はそうだ。それで解決する。

けれど、他の魂のことは他の魂の責任だ。
投げやりに言っているのではない。
これだけは、どうしようもなく、そうなのだ。
馬鹿は死んでも治らない。
初めから終わりまで、本人次第なのである。
初めから終わりまでだ。
つまり、今中(いまじゅう)が本人の責任なのだ。

私が私の責任、すなわち全てに対して責任があると、
全ての人が認めた時、社会から戦いはなくなるだろう。
自分の家族にだけ、自分の肉体にだけ、自分の脳みそにだけ、
いちおう責任を取ろうと考えている人が多ければ、
どんな考えや方法を導入しようが、その次元の問題はいつまでもある。

そして、そうした世界観を具現化した世界は、
必ず宇宙のどこかで再現されるだろうし、
そこでの経験をすることで、自分の進化を促進させると思う人は、
そこにいるだろう。
だから、ここにいるのを嘆くのは、選んだ自分を忘れたということだ、
ということは、他人を見た時によくわかるのは、誰でも知っていることだ。

世界平和を祈るのは立派なことかもしれないが、
自分が中心へ中心へと回帰していく旅に出るのが、
世界の平和そのものだ、と知ることだ。
中心に還れば還るほど、魂が和平であることに気づくのだから。
内面の和平への気づきが、外面の平和を築く。

平和に戻ろうと決意した魂のために、
僕は僕の辿った道標(みちしるべ)を
立てておこう。

・・・・・・・・・・・。
嗚呼、ここにいる旅の話をして、ずいぶん遠くまで来てしまったものだ。