ちょっと駄弁っている間に、ヤプーがもう部室に戻って来たので部員達は瞠目せざるを得なかった。
「どうしたんだ、行かなかったのか?」
小一時間はかかるであろうと踏んでいた彼らを裏切り、なんとヤプーは7分半で舞い戻って来たのである。右手にはTシャツ、左手には『資本主義と分裂症』を携えて。
参考までに、この本は913gある。1キロあるかないか、日常手にする物としては、重い部類に入るだろうか。小麦の1キロ袋、砂糖の1キロ袋、醤油の1キロボトル。これら1000gをすこし越した重さは、ちょっと持って買い物カゴに入れるには、軽い。そして1000gにすこし届かない物、この重さは長時間を経過すると、イライラしてくる重さなのだ。重いなら重いであきらめもつく。はじめから重いと知っている物なら、覚悟もできよう、けれど軽いように思えて、じりじりと真綿で首を締められるように増してくる重量、極小のわずらわしさを百万回積み重ねた時の、水滴の拷問に似た重量。それが1キロをわずかに切った重さなのである。ヤプーがなぜそれを部室にでも置いていかないのか。それは、おいおい明らかになっていくバカバカしい理由からである。
「ジャーン」
と、ヤプーは自慢気にその迷彩色のTシャツを開いて見せた。そうしてさっそくその場で着替え始めた。頭を入れ、それから右手を入れ、右手に持っていた本を左手に持ち替え、左手を袖に通し、すそを下にひっぱった。袖の直径より太い腕がにょきっと肩の付け根まで出て、おまけにヘソまで見えている。ヤプーがどんなに力を込めてすそを引っ張ってもヘソは隠れない。ちんちくりんのTシャツ。
うしろに回って首の後ろのタグを見た部員が言った。
「なにこれ、SSだ」
全サイズあったワゴンの中から、よりによってこれを引き当てなくてもよかったのに。しかしこれも、ヤプーに巣くう、ある種の胸苦しいスイートな信条から生じた結果だったのだ。
「なーに、着れさえすれば、いいんじゃん」
それでも、ヤプーは胸を張った。
胸には、大きなゴチック体で『BOG BOY』とプリントしてあった。

それからというもの、ヤプーはそのTシャツを着っぱなしで、時にそれは正装になり寝巻きになり、夏の盛りのタオルになった。三週間くらい経った時、やっとやつは洗濯機に放り込む気になったんだな。洗濯機の前に足を運んだ。下宿の外に設置してある雨ざらしの洗濯機は二槽式の旧型で水色のプラスチック部分は白くまだらに色あせていた。洗濯が終わってから三時間ほど汚水に浸けっぱなしにした頃、やつは洗濯機の前に行った。不思議なことに多めに入れたはずの洗剤はどこかに行ったのか、泡も立たずただ黒ずんだ水にTシャツは浸かっていた。きっと親切な誰かがすすぎにしてくれたのだろう、とやつは思い、まるで海からクレーンで引き上げられた恐竜の死体のように、びしゃびしゃのTシャツを右手でつかみ、ずるずる引きずるように脱水槽に入れた。フタを閉じ、タイマーをぐいっと回す。12分くらいのところで止まったのだが、なにを思い直したのかやつは5分のところまで戻した。そしてまたツマミに手をかけ、回るところまで回し切った。Tシャツ一枚しか入っていない脱水槽は全力で仕事をやり始めた。回転はぐんぐん増した。加速に加速がつき、ふーんという軽快な震動音が周囲に響き渡った。途中、モーターが焼けて煙がたちのぼったが、その内くるくると回転が緩やかになり、30分にも及ぶ苦しい仕事をなんとか終えた。
次にヤプーが洗濯機の前に行ったのは、二週間過ぎてからだった。替わりに着たTシャツが我慢ならないくらいに汚れたからである。洗濯槽の中にはなく、あちこち探し回った。まさか、それがあの貴重な物だと、にわかに分からなかったが、80円のTシャツは洗濯機の横のステンレスの台に置かれていた。
「ちっ」
ヤプーは舌打ちした。誰かが自分の服を洗濯するために、どかしたのだ。なんて自己中心的で不親切な輩なのだろう。ヤプーは、世間の冷たさを嘆いた。80円のTシャツは脱水槽から出たままの姿で固まっていた。夏の炎天下に晒された80円のTシャツはカラカラに乾いていた。ねじりカリントウのような格好で。ヤプーがそれを伸ばすと、粉が吹いた。日光に反射したその映像は花粉を飛ばす杉の木に似ていた。きれいだ、とヤプーは思った。乾いた雑巾でも開くように開くと、無数にできたシワの溝には洗剤が詰め込まれている。まるでおおきな獣の爪痕のようだ。そしてよく見ると、全体にしわしわで迷彩色はところどころ色が抜けていた。
「絞り染めだと思えばいいや」
ヤプーはまたポジティブな意味をつけた。そしてそのままそれを着た。左肩から右の裾にかけてねじれの形状が固定していて、まるで誰かに力いっぱい引っ張られたように片側の首がだらしなく伸び切っていた。ヤプーはそのTシャツを着てみんなの前に登場した。意気揚々と。