「いくらいるんだ?」
「は、8円、8円貸せ」
「8円って、80円じゃないのか」
「ああ、もう。説明しているヒマはない」
じれったそうにヤプーは、体をふる。
「なにをそんなに急いでいるんだ? 残りが少ないのか」
「あとで、あとで説明する。とにかく、8円だ、8円貸せ」
よくわからないといった面持ちの部員から8円借り受けると、ヤプーは踵を返した。サンダル履きで再び商店街の洋品店に向かっておおあわてで駈け出した。コーヒー色の『資本主義と分裂症』を持ったまま、やつは全速力で走った。
というのも「すぐに戻って来ますから」と店員に言い残してきた言葉を裏切ることはすまい、と決心していたからだ。もはや、彼の中では自分は『走れメロス』そのものだった。ヤプーは走って走って、走った。途中、サンダルの底がめくれてコケそうになったが、スピードの乗った走行は、そうそうバランスを崩すものでもないらしい、なんなくヤプーは体勢を立て直すと、さらにアクセルを吹かした。ヤプーは虚弱体質で、実験などせずとも脆弱な肉体の持ち主で病気ばかりしていたが、
「長距離走だけは、昔から得意なんだよね」
彼に言わせるとこうだ。
現に彼は、そのご秋に開かれた学祭恒例の『遠歩』大会にあっても、山頂から大学の赤門までの60キロを体育会の連中に混じって走って5時間かそこらで完遂したのだった。ゆっくり話しなぞしながら、この粋な散歩を楽しもうと目論んでいた友達を、スタートダッシュでいきなり振り切り、途中まったく休まず上体をうしろにそらす格好でゴールしたそうだ。そのあと学内で頻繁に見受けられる、ぎこちなく両足をひきずってノロノロと歩く『遠歩足』にもかからず、ひょうひょうとサンダルで、やつは大会時もサンダル履きで完走したのだったが、学内を闊歩していたのだった。
白鶴ヶ浜という美しい渚にドライブに連れていってもらった際も、生物学科の同級生の誘いで砂浜を走ったのだが、100メートルを越えた当たりから、ぐんぐん加速しはじめ、生物学科を置き去りにして、打ち寄せる汀(みぎわ)にじゃぶじゃぶ足をつけながら、遥か彼方に走っていく様は、まるで駿馬そのものだったと生物学科は述懐する。
さて、ここからは余談になるが、その後ヤプーは、この時はどうしたことか、ズックに靴下まではいていたのであるが、海の水でじゅっくり濡れたはずのそれらを脱ぎもしない。すーすーと先輩の運転する車で眠りこけていた。3日くらい経って同級生が彼の下宿を訪れると、下宿じゅうが貝や魚の腐ったようなニオイで充満していた。しかもまだ、その靴下をはいたままだったのだ。
下宿の廊下は、彼の歩いたせいでワックスを塗ったようにピカピカつやつやしていたが、その場違いな磯の香りが脳みその奥に染みついて取れない。幸いというか、寛大というか、その下宿に住む他の学生からはなんの苦情も出なかったが、それは想像を絶する発臭の経緯からして、よもやヤプーが元凶などとは誰も推理するに至らなかったからではなかろうか。みつきばかり、下宿は磯の香りに包まれていた。
というのも、彼は『風呂入らん病』になるまでは、銭湯に行かないのだった。この病気は冬場にはふたつき、夏場に2週間以上体を流さないでいると肩から腕にかけて、ブツブツができるというもので、命名は物理学科に通っていたひとつ下の同級生であったが、それがデキてどうにもたまらなくなるまで銭湯に出かけないのであった。この時も、これがデキてさらに三日先伸ばしにしてから、ようやっとヤプーは銭湯に行った。
ところが困ったことに、石鹸をつかってタオルでごしごしやっても、ヤプーの足からはニオイが取れない。珍しく四日も続けて銭湯に通い、毎日ごしごし洗ったが、抜けなかった。シャンプーで洗っても、リンスで洗っても、ニオイは他の香料と混じり、ますます臭くなる一方だった。
「焼きが入ったんだ」
と物理学科は笑った。
風呂といえば、ヤプーはある告白を自らした。
「生まれつきなんだよね」
嘆くような、それでいて自慢するような口ぶりだった。
「生まれた時から、ムケてるんだ」
聞いてもいないのに彼は言う。しかも、まさにウマナミの逸物を備えていたのである。黒鉄ヒロシさんという漫画家に、子供を背負っている侍の話があるが、そうでもしなければ、地面をひきずって歩くことになりそうだった。いまにして思えば、こんなものだから、やつが単身行った東京の新聞配達で野卑で口さがない他のバイト連中がヤプーをヤプーと呼び始めたのもうなづける。