たとえば、日記を書こうと思う。
詩を書こうと思う。小説を書こうと思う。
自伝を書こうと思う。

そうして書き始める。
書くうちに、書く事がなくなる。
でも、なんとか書き続けたい、書かないわけにはいかない。

そうした時に、書けない事が出てくる。
他人のプライバシーの侵害だからではなく、
自分の心の傷になっているからだ。

カッコの良いことは書ける。
カッコつけることは書ける。
でも、嘲笑されそうなことは書けない。

褒められそうなことは書けない。
馬鹿にされそうなことは書けない。
愛されそうなことは書けない。

なぜ、これを書くのには抵抗があるのか。
なぜ、ブレーキがかかるのか。
覚えているし、思い出せるのに。

はい、そこ。

なぜ、抵抗があるのか、なにが邪魔しているのか、
それを見つめて、えぐり出すのが、
書くという行為の神髄だ。

そしてまた、読む価値のあるものなのだ。
読む者も、あなたに倣って、自分をえぐり出す。
えぐり出してしまえば、なんてことはなかった。

たいしたことはないのだ。
恥ずかしくも無い。
むしろ、快感である。

これは、成長進化のひとつの方法なのだ。
隠していたり、抑圧していたり、他人のせいにしていたり、
ごまかしている部分に光を当てる。

見ないようにしていたことに触れるまで
書き続けることだ。
もう、それを書かなければ、書く事がない、

そこまで、書くことだ。
書くことは、そこから始まる。
読む価値のあるものが、やっと書けるのだ。

人間が最も書けないことを教えてやろう。
自分が愛であることだ。
どんなに才能があるか。どんなに幸福か。

それを最も回避する。
最も、忌み嫌う。
被害や加害の記憶ではない。

すっぱだかの自分をさらすことだ。
宇宙人を見てみろ。
やつらは、裸でうろちょろしてるじゃないか。

内心をあけすけにしている姿を
身をもって表しているんだ。
別に、寒くないからじゃない。

書けない事が書け始めた時、
やっと、それは日記だ。
詩だ、小説だ、自伝だ。

どんなに、
自分が自分を愛(いと)おしいか。
どんなに、疎(うと)ましい他人を愛おしいか。
厭(いと)わしい自分が愛おしいか。

どんなに、地球が愛おしいか。
どんなに、自然が愛おしいか。
どんなに、生物が愛おしいか。

いきなり、それが書けるなら、
偉大な芸術家だ。
なにも謙遜することはない。