誰かにこの気持ちを解ってもらいたい。
私のことをもっと知って欲しい。
なのに、誰も解ってくれない。

まるで恋にも似た胸の苦しみ。
鬱屈した胸のつかえ、胸くそのわるさ。
やきもきする。じれったい。

それは、宇宙の気分を代弁しているとも言える。
なにせ、宇宙は理解されたがっているから。
でも、解ってくれない。

けれどもし、誰かに自分の全てを見透かされたら、
おそらく、気持ちわるくなって、
引くのではないですか?

そうしてまた、
ほとんどなにも解ってくれない人を探し求めて、
その人の元へ行く。

嘆き、悲しみ、解って欲しいと訴える。
誰かに相談する。
占いに視てもらう。

それは、全部、解ってもらいたくない行動なんだ。
自分を知りたくないから。
自分を知れば、知った分だけ、他人が解る。

解れば、解ってもらう必要がなくなる。
つまり、自分を知りたくない気持ちが、
解ってくれない病を発症する。

こんな病気、タダで治る。
たいていの事はタダで治る。
鏡さえあればよい。

だけど、どんなに腕の良い医者でも、
自分で自分の手術をすることはできない。
まさか、全身麻酔をかけたままオペをするわけにはいくまい。

だから、他人がいる。
眼を閉じて眠っている私を
眼を開いて観ている鏡が。

それは、書物だったり、
映画だったり、音楽だったり、
絵画だったり、あるいは経験だったりする。

いや、すべて経験だ。
どんなカウンセリングも、経験なのだ。
経験に耳を澄ますことで、なにがなんだか知る。

宇宙は、自分がなんでも知っていることを
知ってもらいたがっている。
なんでも解っていることを解ってもらいたがっている。

ここでは、立場が逆だ。
私たちは宇宙を理解する側だ。そして、
これまで無かったように理解するのが、創造なのだ。

私たちは知っていることを知るために、
人間になったのだ。
解っていることを解るために、この世に来たのだ。

あきらめよ!
私たちは、理解する側だ。
私たちは、創造神さえ理解し、また創造する立場なのだ。

あきらめよ!
私たちは、他人が理解できる。
他人を創造することが、できる。

あきらめよ!
私たちは、自分が理解できる。
自分を創造することが、できる。

あきらめよ!
私たちは、なんでも知っている。
解ってもらう必要はどこにもない。

あきらめよ!