にゃんこのことを聞いてくれ。
冷蔵庫に貼ってあった写真というのはこの猫なんだ。僕のところにしばらく出入りしていた猫のことだよ。この猫は実際、二階の松木婆ぁの部屋に共通階段の囲いから裏ベランダに飛び移って忍び込んだことがある。この地球上で最も猫に無理解な人間のところになぜわざわざ入り込もうと思ったのか、僕は猫の気持ちがわからない。ちょうど僕が彼女を探しに三階までおりていた時に、追われたにゃんこがまた階段の囲いに飛び移ってきたところだった。二階の玄関のドアが開き、婆ぁが出てきた。婆ぁは右手にゴキジェットを持っていた。上段にいる僕にはまったく気がつかない様子で、そっと階段を猫が逃げないようにのぼり、しゅーしゅーそこらじゅうにゴキジェットを振り撒いたんだ。僕は階段の曲がり角の衝立みたいになっている塀に身をかがめて隠れ、にゃんこに手招きをしていた。捕まえて抱きかかえ、音を立てずに駈け上がれば婆ぁに見つかることはないだろうと踏んだんだ。ところが、にゃんこは僕より奇っ怪な格好で自分に迫ってくる婆ぁの方が物珍しいらしく、そっちばかりチラチラ見て僕のところに来やしないんだな。婆ぁは調子に乗って、ゴキジェットを噴射しながら踊り場で待ちかまえている猫に近づいた。しゅーしゅー。どうして猫にゴキブリ駆除用の化学兵器なのか、と僕は疑心に駆られたけど、なんだか婆さんの猫に対する好悪がそのまま現れているとも思えた。
僕が手招きする。猫は来ない。婆ぁは近づく。僕はあせる。婆ぁが階段を登りきろうとしたので、やっとにゃんこは僕の所に来た。彼女を捕獲した時にはもう遅く、松木婆ぁと僕は鉢合わせ。顔と顔を突き合わせてご対面。最高に笑えるシチュエーションができあがった。ハハ。ごまかし笑いと共に僕はにゃんこを抱き上げそそくさと階段をのぼった。ババアは何も言わなかった。
この猫を拾うとき、自意識でとてもビクビクした行動をとってしまった。なぜって、僕がどこにも所属していない宙ぶらりんだから「あなた何やっているの?」という質問に答えにくいということもあるけれど、この団地には他人の詮索と干渉ずきな人々がいて、こちらの言い分などおかまいなしに、妄想を膨らませ、まるでそれが現実であるかのように思いこみ、団地の秩序を守りましょうといった大義名分をひっさげて成敗に来るからなんだ。実際、近くの公園で幼女暴行事件があったとき、昼間から部屋にこもっている青年である僕のところへ警官がまっさきにこの事件のことを知らせにきたほどだったのだから。「そちらにも小さな女のお子さんがいらっしゃるから、注意してください」と警官は言ったんだ。ひとみは幼稚園に行き、ーーひとみというのは6歳になる僕の妹なんだ。母はパートで僕しかいなかった。誰かが、僕が疑わしいと密告くったにちがいない。なんてったって僕は、れっきとした17歳無職の少年なんだから。小さな女の子のいる他の家族には、知らせに行かなかったようだ。無所属だから事件のあったのを聞かなかっただろうと、わざわざ知らせに来るというのは親切過ぎやしませんか。近くの家で空き巣が入ったときも、「気をつけて下さい」と言いに来た。僕のところにだけだよ。「ええ、わかりました、母に伝えます」そう答えて僕は四階の窓から下を見ていた。警官は、パトカーに乗り込んで帰っていった。この団地だけでも24戸あるというのに。これは僕の被害妄想だろうか、それとも他住人の疑心暗鬼だろうか。どちらにしろ、団地の秩序を守るために、互いが互いを監視して、警告し合うことは正しいことだと信じられていることは確かだろうね。
しかして後日、案の定というか事の成り行き上の必然というか、緊急の丁内会がもうけられ、そこで婆ぁが「この団地で猫を飼っている者がいる!」と苦々しく、また毒々しく母を見もせずに住人全員に訴えたのだそうだ。動物以下の人間がこの団地に紛れ込んでいるのを僕はその時知ったんだ。けれど『まあ、いけないわよねえ』などと阿諛追従した連中からしてみれば、どんな規則でも破る輩の方が人間以下ということになっていたにちがいないのだけれど。
でも僕がコソコソしているのは、心底僕の生き方が好きだからなんじゃないかと、このごろでは思えてきたよ。それが、他人が怖くて仕方のない、不幸に舌なめずりしている連中に申し訳なくて、ひけめを感じてしまうんだ。
でも本当に、この猫は僕の所にいるべきじゃなかった。夜中から朝方にかけて、ミーミー、ミーミー近所で鳴くから、ある日の夕方、ひとみと一緒に様子を見に行ったとき、その妹にまとわりついてくるものだから、さんざん迷ったけど、というのは、その子猫はなにかの病気らしく、両目が閉じダラダラと濁った涙を流していたし、もう数日なにも食べていないらしく、がりがりに痩せこけていたからだった、それでも僕らは、コンビニの白いポリエチレンの袋に入れてもってかえって来たというわけだ。ひとみと一緒に行く前に僕は下準備として、朝早くひとりで、鳴き声のする方へそっと近づいていった。五時前で、まもなく夜が明けそうな、かわたれどきとでもいうような空気だった。当然、父や母は「アパートじゃ飼えないから」と入室を拒否したのだけれど、それが口だけだということがわかったから、僕は痩せて眼の見えない猫をかかえて部屋の中に入ったんだ。子猫は、はじめ見たとき、似ても似つかない白くて長い毛と横びろい不機嫌そうな顔の成猫と一緒にいた。二匹がいた場所は隣の棟の真下の庭だったから、僕がうろちょろすると、不審人物がいるという警戒心を団地の住人にもたせるのではないかと、気が気じゃなかったから、ーー実際、この団地の住人に限らずこの地域の大人たちは『防犯』という言葉が好きだ。『防犯』を理由にほとんど被害妄想にしか思えないような奇行をやらかすほど、他人を信用しちゃいないんだから。
朝の散歩でもしている風を僕は装い、そのついでにめずらしいものをみつけたので、それを機にひと休みをして仲むつまじい猫の親子を眺めているという素振りをしたのだった。成猫は白いふさふさの長い毛をしていたけれど、子猫はキジとドラと白がまだらに混じった、とても柄の悪い、しっぽも短く、ちょっと商品価値はなさそうな、どこにでもいる野良猫だった。その子猫を成猫は自分の腹の下に守るように入れて歩いたり遊ばせたりしていた。しかし、どう見たって、猫の素人の僕が見たって、親子には思えなかったな。僕が近づくと成猫は、うーっと威嚇の声をあげるので、その日は引き返した。ところが、2、3日経って、その間も子猫は夜中から朝方まで鳴いているのがずっと聞こえていた、ーーひとみと様子を見に行くと、成猫の方はどこかにいなくなっていて、子猫だけが草むらに隠れていた。僕らが近づくと、声や足音に反応してか、ミーミー言いながら近寄ってきたのだった。よく見ると体には葉くずや木くずがついて、眼の涙は尋常でないくらいべっとりと顔中についていた。それでも、僕がこの子猫を拾う気になったのは、その半年くらい前に、三毛猫の雄を拾ったけれども、すぐに死んでしまったという事があったからだ。それ以来、僕はどこかに三毛猫の雄はいないかなあと探していたのかもしれない。この子猫はもしかすると、三毛猫の雄かもしれない、という期待で僕は妹をその場に残したまま急いで部屋にもどり、台所の流しの下に常備してあるコンビニ袋の中から適当な大きさの物を選んで、中にボロ切れをまるめこむと大急ぎで、それこそ息急き切って、もう一度猫の所に戻ったんだ。その間も、近所のオバサン連中が3、4人、ちかくで立ち話をしていたので、猫を拾うところを見つかると、あとで要らぬ風評を立てられるのではないかと、気になったけど、日も暮れかけていたことだし、ともかく眼の涙だけはふいてやらなければならないと思い、その子猫をつまみあげ、袋に入れた。猫はカラカラに乾いたぞうきんみたいに軽かった。そして僕はひとみの手をとり、逃げるようにその場を走り去ったのだった。
アパートにもって帰り、子猫の眼を見ると、まったく開かずまぶたをめくっても目玉がないので、これはもしかすると眼球の形成されていない奇形かもしれない、いや、それはもし、この猫が三毛猫の雄ならば十分にありうるなどと考えながら、いくつかの犬猫病院に問い合わせ、応急処置の方法をたずねた。ほう酸水で洗えと言われた。家にはなかったので、とりあえずお湯で目の回りをふき取った。おまけにこの猫は、肛門が外側にめくれていて、ただれた赤い痔が出たままひっこまず痛々しかった。スーパーに行き、子猫用の粉ミルクと哺乳壜を買い、口にあてがったが、子猫は吸い口をかじるばかりでいっこうに飲もうとしなかった。何度ふいても眼の涙は止まらず、仕方がないので、獣医に見せることにした。僕は自転車を飛ばした。八時を過ぎていたので、時間外診療になったけど、後悔しないように連れていくことにしたんだ。
「二毛のメスです」
獣医さんは、こちらの期待を察したのか、きっぱり言い切りはしなかったが「メスはメスです。それに、この毛柄はもしかすると、三毛じゃなくて二毛かもしれませんねえ」と言葉を濁した。子猫は人間でいうインフルエンザにかかっており、眼のまぶたが腫れて炎症をおこしているとのことだった。インターフェロンとかいう仰々しい薬物の入った注射を打たれたとき子猫は「ニャッ」となさけない声をあげた。目を閉じたまま。薬をもらうと、僕の今月のこづかいはすべてなくなった。
その日から、子猫は厄介者としてウチに出入りすることになったのだった。飼っているのではない、ときどきウチにやってきてご飯を食べていく友だちだということにして、ーーそんな理由がご近所や役所の土木課に通用するとも思えなかったけれど、誰かしかるべきもらい手が現れるまで、そういうことにしておくことに、家族の話し合いで決定した。
「にゃんこ」
飼っているのではないから、猫には名前をつけず、猫で雌だから、そう呼ぶことにした。
にゃんこはそれから六カ月後、冬の半ばの晴れた日に死体で見つかった。
冷蔵庫に貼ってあった写真というのはこの猫なんだ。僕のところにしばらく出入りしていた猫のことだよ。この猫は実際、二階の松木婆ぁの部屋に共通階段の囲いから裏ベランダに飛び移って忍び込んだことがある。この地球上で最も猫に無理解な人間のところになぜわざわざ入り込もうと思ったのか、僕は猫の気持ちがわからない。ちょうど僕が彼女を探しに三階までおりていた時に、追われたにゃんこがまた階段の囲いに飛び移ってきたところだった。二階の玄関のドアが開き、婆ぁが出てきた。婆ぁは右手にゴキジェットを持っていた。上段にいる僕にはまったく気がつかない様子で、そっと階段を猫が逃げないようにのぼり、しゅーしゅーそこらじゅうにゴキジェットを振り撒いたんだ。僕は階段の曲がり角の衝立みたいになっている塀に身をかがめて隠れ、にゃんこに手招きをしていた。捕まえて抱きかかえ、音を立てずに駈け上がれば婆ぁに見つかることはないだろうと踏んだんだ。ところが、にゃんこは僕より奇っ怪な格好で自分に迫ってくる婆ぁの方が物珍しいらしく、そっちばかりチラチラ見て僕のところに来やしないんだな。婆ぁは調子に乗って、ゴキジェットを噴射しながら踊り場で待ちかまえている猫に近づいた。しゅーしゅー。どうして猫にゴキブリ駆除用の化学兵器なのか、と僕は疑心に駆られたけど、なんだか婆さんの猫に対する好悪がそのまま現れているとも思えた。
僕が手招きする。猫は来ない。婆ぁは近づく。僕はあせる。婆ぁが階段を登りきろうとしたので、やっとにゃんこは僕の所に来た。彼女を捕獲した時にはもう遅く、松木婆ぁと僕は鉢合わせ。顔と顔を突き合わせてご対面。最高に笑えるシチュエーションができあがった。ハハ。ごまかし笑いと共に僕はにゃんこを抱き上げそそくさと階段をのぼった。ババアは何も言わなかった。
この猫を拾うとき、自意識でとてもビクビクした行動をとってしまった。なぜって、僕がどこにも所属していない宙ぶらりんだから「あなた何やっているの?」という質問に答えにくいということもあるけれど、この団地には他人の詮索と干渉ずきな人々がいて、こちらの言い分などおかまいなしに、妄想を膨らませ、まるでそれが現実であるかのように思いこみ、団地の秩序を守りましょうといった大義名分をひっさげて成敗に来るからなんだ。実際、近くの公園で幼女暴行事件があったとき、昼間から部屋にこもっている青年である僕のところへ警官がまっさきにこの事件のことを知らせにきたほどだったのだから。「そちらにも小さな女のお子さんがいらっしゃるから、注意してください」と警官は言ったんだ。ひとみは幼稚園に行き、ーーひとみというのは6歳になる僕の妹なんだ。母はパートで僕しかいなかった。誰かが、僕が疑わしいと密告くったにちがいない。なんてったって僕は、れっきとした17歳無職の少年なんだから。小さな女の子のいる他の家族には、知らせに行かなかったようだ。無所属だから事件のあったのを聞かなかっただろうと、わざわざ知らせに来るというのは親切過ぎやしませんか。近くの家で空き巣が入ったときも、「気をつけて下さい」と言いに来た。僕のところにだけだよ。「ええ、わかりました、母に伝えます」そう答えて僕は四階の窓から下を見ていた。警官は、パトカーに乗り込んで帰っていった。この団地だけでも24戸あるというのに。これは僕の被害妄想だろうか、それとも他住人の疑心暗鬼だろうか。どちらにしろ、団地の秩序を守るために、互いが互いを監視して、警告し合うことは正しいことだと信じられていることは確かだろうね。
しかして後日、案の定というか事の成り行き上の必然というか、緊急の丁内会がもうけられ、そこで婆ぁが「この団地で猫を飼っている者がいる!」と苦々しく、また毒々しく母を見もせずに住人全員に訴えたのだそうだ。動物以下の人間がこの団地に紛れ込んでいるのを僕はその時知ったんだ。けれど『まあ、いけないわよねえ』などと阿諛追従した連中からしてみれば、どんな規則でも破る輩の方が人間以下ということになっていたにちがいないのだけれど。
でも僕がコソコソしているのは、心底僕の生き方が好きだからなんじゃないかと、このごろでは思えてきたよ。それが、他人が怖くて仕方のない、不幸に舌なめずりしている連中に申し訳なくて、ひけめを感じてしまうんだ。
でも本当に、この猫は僕の所にいるべきじゃなかった。夜中から朝方にかけて、ミーミー、ミーミー近所で鳴くから、ある日の夕方、ひとみと一緒に様子を見に行ったとき、その妹にまとわりついてくるものだから、さんざん迷ったけど、というのは、その子猫はなにかの病気らしく、両目が閉じダラダラと濁った涙を流していたし、もう数日なにも食べていないらしく、がりがりに痩せこけていたからだった、それでも僕らは、コンビニの白いポリエチレンの袋に入れてもってかえって来たというわけだ。ひとみと一緒に行く前に僕は下準備として、朝早くひとりで、鳴き声のする方へそっと近づいていった。五時前で、まもなく夜が明けそうな、かわたれどきとでもいうような空気だった。当然、父や母は「アパートじゃ飼えないから」と入室を拒否したのだけれど、それが口だけだということがわかったから、僕は痩せて眼の見えない猫をかかえて部屋の中に入ったんだ。子猫は、はじめ見たとき、似ても似つかない白くて長い毛と横びろい不機嫌そうな顔の成猫と一緒にいた。二匹がいた場所は隣の棟の真下の庭だったから、僕がうろちょろすると、不審人物がいるという警戒心を団地の住人にもたせるのではないかと、気が気じゃなかったから、ーー実際、この団地の住人に限らずこの地域の大人たちは『防犯』という言葉が好きだ。『防犯』を理由にほとんど被害妄想にしか思えないような奇行をやらかすほど、他人を信用しちゃいないんだから。
朝の散歩でもしている風を僕は装い、そのついでにめずらしいものをみつけたので、それを機にひと休みをして仲むつまじい猫の親子を眺めているという素振りをしたのだった。成猫は白いふさふさの長い毛をしていたけれど、子猫はキジとドラと白がまだらに混じった、とても柄の悪い、しっぽも短く、ちょっと商品価値はなさそうな、どこにでもいる野良猫だった。その子猫を成猫は自分の腹の下に守るように入れて歩いたり遊ばせたりしていた。しかし、どう見たって、猫の素人の僕が見たって、親子には思えなかったな。僕が近づくと成猫は、うーっと威嚇の声をあげるので、その日は引き返した。ところが、2、3日経って、その間も子猫は夜中から朝方まで鳴いているのがずっと聞こえていた、ーーひとみと様子を見に行くと、成猫の方はどこかにいなくなっていて、子猫だけが草むらに隠れていた。僕らが近づくと、声や足音に反応してか、ミーミー言いながら近寄ってきたのだった。よく見ると体には葉くずや木くずがついて、眼の涙は尋常でないくらいべっとりと顔中についていた。それでも、僕がこの子猫を拾う気になったのは、その半年くらい前に、三毛猫の雄を拾ったけれども、すぐに死んでしまったという事があったからだ。それ以来、僕はどこかに三毛猫の雄はいないかなあと探していたのかもしれない。この子猫はもしかすると、三毛猫の雄かもしれない、という期待で僕は妹をその場に残したまま急いで部屋にもどり、台所の流しの下に常備してあるコンビニ袋の中から適当な大きさの物を選んで、中にボロ切れをまるめこむと大急ぎで、それこそ息急き切って、もう一度猫の所に戻ったんだ。その間も、近所のオバサン連中が3、4人、ちかくで立ち話をしていたので、猫を拾うところを見つかると、あとで要らぬ風評を立てられるのではないかと、気になったけど、日も暮れかけていたことだし、ともかく眼の涙だけはふいてやらなければならないと思い、その子猫をつまみあげ、袋に入れた。猫はカラカラに乾いたぞうきんみたいに軽かった。そして僕はひとみの手をとり、逃げるようにその場を走り去ったのだった。
アパートにもって帰り、子猫の眼を見ると、まったく開かずまぶたをめくっても目玉がないので、これはもしかすると眼球の形成されていない奇形かもしれない、いや、それはもし、この猫が三毛猫の雄ならば十分にありうるなどと考えながら、いくつかの犬猫病院に問い合わせ、応急処置の方法をたずねた。ほう酸水で洗えと言われた。家にはなかったので、とりあえずお湯で目の回りをふき取った。おまけにこの猫は、肛門が外側にめくれていて、ただれた赤い痔が出たままひっこまず痛々しかった。スーパーに行き、子猫用の粉ミルクと哺乳壜を買い、口にあてがったが、子猫は吸い口をかじるばかりでいっこうに飲もうとしなかった。何度ふいても眼の涙は止まらず、仕方がないので、獣医に見せることにした。僕は自転車を飛ばした。八時を過ぎていたので、時間外診療になったけど、後悔しないように連れていくことにしたんだ。
「二毛のメスです」
獣医さんは、こちらの期待を察したのか、きっぱり言い切りはしなかったが「メスはメスです。それに、この毛柄はもしかすると、三毛じゃなくて二毛かもしれませんねえ」と言葉を濁した。子猫は人間でいうインフルエンザにかかっており、眼のまぶたが腫れて炎症をおこしているとのことだった。インターフェロンとかいう仰々しい薬物の入った注射を打たれたとき子猫は「ニャッ」となさけない声をあげた。目を閉じたまま。薬をもらうと、僕の今月のこづかいはすべてなくなった。
その日から、子猫は厄介者としてウチに出入りすることになったのだった。飼っているのではない、ときどきウチにやってきてご飯を食べていく友だちだということにして、ーーそんな理由がご近所や役所の土木課に通用するとも思えなかったけれど、誰かしかるべきもらい手が現れるまで、そういうことにしておくことに、家族の話し合いで決定した。
「にゃんこ」
飼っているのではないから、猫には名前をつけず、猫で雌だから、そう呼ぶことにした。
にゃんこはそれから六カ月後、冬の半ばの晴れた日に死体で見つかった。
