逢う魔が時の欲望
実験といえば、それからしばらくして僕は科学少年に出会った。
「なにをしているの?」
科学少年はしゃがみこみ、後ろを向いてなにやらゴソゴソやっていた。そこは、父の実験の場所から五メートルも離れていない、同じ植え込みの右端だった。
「あ、うん。これ」
と言って彼は立ち上がった。初めて見る顔だ。前髪が長く、緑のチェックの長そでを着ていた。優しそうな印象だった。小学校の高学年だったかもしれない、背が高かく肩幅も広かった。日が落ちるのが早くなった。そろそろ秋風でも吹こうかという時分だったろう。
手のひらに何か載っているようなのだが、見えない。僕がつま先立ちをすると彼は手のひらを傾けた。そこには一疋のトノサマガエルがいた。僕の知っているカエルとはおおちがいで、跳ねて逃げ回ったりせず、セトモノみたいにじっとしている。咽だけはふいごのように動いているので生きているのだろう。目は半開きで、怒っているように見えた。
「これ、夏に捕まえてからずっと飼ってるんだ」
そう言うと科学少年は、指先でカエルの背中やあごの下をくりくりなでた。
「すっかりなついちゃって、おれから離れようとしないんだ」
なついたというよりも、観念しているように見えた。そこで、当然の疑問を僕は投げかけた。
「餌はなにをやっているの?」
「なにも」
こともなげに彼は言った。
「ご飯の残りをやっても食べないんだ」
語彙も構文も知らない僕は、自分の胸の中でうずまく疑問や反論や提案を言葉にすることがかなわなかった。頭の中がぐるぐる錯綜したまま黙っていると、科学少年が言った。
「ずっと机の中にしまっていたんだけど、そろそろ、冬だろ? だから、こいつが冬眠する場所を探していたんだ」
彼がかがんでいた場所を見ると、瓦礫がこづんであり、カエルを保護する要塞をこしらえるにはうってつけだった。まるで、てのひらに高級なワインを載せたお盆を載せたかのように、丁寧にバランスを取りながら再び少年は腰をおろした。
「ほら、見な」
彼の指さした所を覗き込んだ。横穴が掘ってある。すっぽりと右手が入りそうな具合で、適度な湿気を含んだ土で壁面が固められていた。
「あとは、石を積んで囲もうかと思っている」と科学少年は言った。「でも、問題は雨だ」
雨が降ると、横穴にまでしみ込んで、水びたしになるからカエルが溺れ死ぬのではないかと彼は心配していたのだった。僕は、母が政夫くんによく言っていた『カエルのツラにしょんべん』という諺を思い出して、混乱した。
科学少年は、近くに落ちていたフタ付きの長方形のスチール缶を拾ってきて、その中にカエルを入れた。カエルは、咽の辺りをゆっくり膨らませたりしぼませたりしている。彼はそれにぴったりとフタをした。しかしそうすると、今度はカエルが窒息死するのではないかという心配がでてきた。彼は再びフタを開けると、ふーふー息を吹き入れた。僕には缶の中の酸素を追い出して、二酸化炭素含有量を増やす努力をしているように見えた。
「でも、冬眠中のカエルは、あんまり息をしないから、いいか」
そう言うと彼は、横穴に缶を埋め、ピラミッドを築いた。
次の日、またカエルを埋めた場所に座り込んでいる科学少年を見つけた。僕を認めた彼は言った。
「空気の入れ替えにきたところだ」
見ると、カエルは目を半開きにして眠そうだった。毎日、空気の入れ替えの度にたたき起こされるカエルは冬眠できるのだろうか、と僕は思った。
次の日も、そのまた次の日も、僕はカエルの要塞の前にかがんでいる彼を見つけた。だいたい彼を見かけるのは、いつも夕日がさすころだった。カエルは、お経を唱えながら即身成仏していく鑑真和尚のように日に日に痩せこけ、崇高な顔つきになっていった。
もう秋になっていただろうか、母が『秋の日はつるべ落とし』と何度も言っていたのを憶えているくらいだから、ーーまたあの場所にいる彼を見つけたので声をかけた。彼は、理科の実験で初めてメスを使った話をした。
「フナを解剖した」
と彼は言った。
「理科の時間にフナを切り刻んでいたら、チンポが勃ってきた」
隠し立てすることもなく、普通に言った。大人の性欲が芽生えたちょうどそのタイミングに、生き物の生死を支配する解剖に出会ってしまった科学少年が不幸だったかどうかは知れない。が、彼にしてみれば、正当なる学校の授業中に二つの欲望が結びつくことが悪いことであるはずがなかった。以来、いろんな虫や小動物を捕まえては、その快感に耽っていると言う。飼っていたジュウシマツからネズミ、ネズミからイタチ、イタチから猫へとだんだんエスカレートしてきたそうだ。その話を聞いた僕は、さすがに危険な香りを感じ、我が身を案じないわけにはいかなかった。
「ほら」
科学少年は、仰向けにされ、腹を割かれたカエルを見せた。いままさに、彼は快感を得ているた最中だったのだ。彼はことさら手が器用な様子で、教科書に載っている解剖図そのままに、カエルを開いていた。
「一番大事にしているこいつを解剖すれば、もっと興奮するんじゃないかと思って」
事も無げに言った。カエルは麻酔もかけていないのに黙ってなすがままになっていた。腹を切り開かれているにもかかわらず、動じることなく半開きの目でゆっくり咽を動かしている。その様子を見ながら、僕はきいた。
「メスはどうしたの?」
「兄貴の科学雑誌のフロクについていた」
と言って彼は銀色のメスを見せた。刃先が夕日に反射してギラついた。僕は、唾を飲んだ。
慣れた手つきでみるみる皮を剥ぎ取り、内蔵を切り取り、目をえぐり出し、彼はカエルを骨だけにした。思わず僕はその場を離れた。少年は立ち去る僕に目もくれず作業を続けた。
三十分くらいしてまた行くと、解体されたチョウチンアンコウのように、各パーツがきれいに缶の中に並べられていた。いったい彼の下腹部はどうなっているのだろう、という疑問を僕はなるべく持たない努力をしていた。
すっと彼は立ち上がった。そして晴れがましい顔で言った。そんな顔をする彼を僕は初めて見た。
「こんなもんか。もっと、興奮するかと思ったのに」
すっかり興ざめした様子だった。
「でも、不思議なんだよな。切っても切っても、カエルの中からは何も出てこないんだ。切っても切っても、カエルはいないんだ」
しばらく僕は茫然としていた。
「もう、やめた。このメス、要るならやろうか?」
僕は頭を横に振った。
「そうか」
彼はメスの刃先を石に押しつけて曲げた。もし僕という他者の立ち会いがなくて、彼が独り陰にこもっていったとしたら・・・。よかったと思った。でも、用心のため、もう、彼には近づかないでおこう。と心配するまでもなく、それ以来、彼を家の近くで見ることはなかった。
数年して、学生服を着た凛々しい彼に偶然出会った。僕の質問に彼は満面の笑顔をたたえて明るく答えた。
「元気だぜ」
このように昭和とは、巷で科学の偉大なる実験が大はやりしていた時代だった、のか?
実験といえば、それからしばらくして僕は科学少年に出会った。
「なにをしているの?」
科学少年はしゃがみこみ、後ろを向いてなにやらゴソゴソやっていた。そこは、父の実験の場所から五メートルも離れていない、同じ植え込みの右端だった。
「あ、うん。これ」
と言って彼は立ち上がった。初めて見る顔だ。前髪が長く、緑のチェックの長そでを着ていた。優しそうな印象だった。小学校の高学年だったかもしれない、背が高かく肩幅も広かった。日が落ちるのが早くなった。そろそろ秋風でも吹こうかという時分だったろう。
手のひらに何か載っているようなのだが、見えない。僕がつま先立ちをすると彼は手のひらを傾けた。そこには一疋のトノサマガエルがいた。僕の知っているカエルとはおおちがいで、跳ねて逃げ回ったりせず、セトモノみたいにじっとしている。咽だけはふいごのように動いているので生きているのだろう。目は半開きで、怒っているように見えた。
「これ、夏に捕まえてからずっと飼ってるんだ」
そう言うと科学少年は、指先でカエルの背中やあごの下をくりくりなでた。
「すっかりなついちゃって、おれから離れようとしないんだ」
なついたというよりも、観念しているように見えた。そこで、当然の疑問を僕は投げかけた。
「餌はなにをやっているの?」
「なにも」
こともなげに彼は言った。
「ご飯の残りをやっても食べないんだ」
語彙も構文も知らない僕は、自分の胸の中でうずまく疑問や反論や提案を言葉にすることがかなわなかった。頭の中がぐるぐる錯綜したまま黙っていると、科学少年が言った。
「ずっと机の中にしまっていたんだけど、そろそろ、冬だろ? だから、こいつが冬眠する場所を探していたんだ」
彼がかがんでいた場所を見ると、瓦礫がこづんであり、カエルを保護する要塞をこしらえるにはうってつけだった。まるで、てのひらに高級なワインを載せたお盆を載せたかのように、丁寧にバランスを取りながら再び少年は腰をおろした。
「ほら、見な」
彼の指さした所を覗き込んだ。横穴が掘ってある。すっぽりと右手が入りそうな具合で、適度な湿気を含んだ土で壁面が固められていた。
「あとは、石を積んで囲もうかと思っている」と科学少年は言った。「でも、問題は雨だ」
雨が降ると、横穴にまでしみ込んで、水びたしになるからカエルが溺れ死ぬのではないかと彼は心配していたのだった。僕は、母が政夫くんによく言っていた『カエルのツラにしょんべん』という諺を思い出して、混乱した。
科学少年は、近くに落ちていたフタ付きの長方形のスチール缶を拾ってきて、その中にカエルを入れた。カエルは、咽の辺りをゆっくり膨らませたりしぼませたりしている。彼はそれにぴったりとフタをした。しかしそうすると、今度はカエルが窒息死するのではないかという心配がでてきた。彼は再びフタを開けると、ふーふー息を吹き入れた。僕には缶の中の酸素を追い出して、二酸化炭素含有量を増やす努力をしているように見えた。
「でも、冬眠中のカエルは、あんまり息をしないから、いいか」
そう言うと彼は、横穴に缶を埋め、ピラミッドを築いた。
次の日、またカエルを埋めた場所に座り込んでいる科学少年を見つけた。僕を認めた彼は言った。
「空気の入れ替えにきたところだ」
見ると、カエルは目を半開きにして眠そうだった。毎日、空気の入れ替えの度にたたき起こされるカエルは冬眠できるのだろうか、と僕は思った。
次の日も、そのまた次の日も、僕はカエルの要塞の前にかがんでいる彼を見つけた。だいたい彼を見かけるのは、いつも夕日がさすころだった。カエルは、お経を唱えながら即身成仏していく鑑真和尚のように日に日に痩せこけ、崇高な顔つきになっていった。
もう秋になっていただろうか、母が『秋の日はつるべ落とし』と何度も言っていたのを憶えているくらいだから、ーーまたあの場所にいる彼を見つけたので声をかけた。彼は、理科の実験で初めてメスを使った話をした。
「フナを解剖した」
と彼は言った。
「理科の時間にフナを切り刻んでいたら、チンポが勃ってきた」
隠し立てすることもなく、普通に言った。大人の性欲が芽生えたちょうどそのタイミングに、生き物の生死を支配する解剖に出会ってしまった科学少年が不幸だったかどうかは知れない。が、彼にしてみれば、正当なる学校の授業中に二つの欲望が結びつくことが悪いことであるはずがなかった。以来、いろんな虫や小動物を捕まえては、その快感に耽っていると言う。飼っていたジュウシマツからネズミ、ネズミからイタチ、イタチから猫へとだんだんエスカレートしてきたそうだ。その話を聞いた僕は、さすがに危険な香りを感じ、我が身を案じないわけにはいかなかった。
「ほら」
科学少年は、仰向けにされ、腹を割かれたカエルを見せた。いままさに、彼は快感を得ているた最中だったのだ。彼はことさら手が器用な様子で、教科書に載っている解剖図そのままに、カエルを開いていた。
「一番大事にしているこいつを解剖すれば、もっと興奮するんじゃないかと思って」
事も無げに言った。カエルは麻酔もかけていないのに黙ってなすがままになっていた。腹を切り開かれているにもかかわらず、動じることなく半開きの目でゆっくり咽を動かしている。その様子を見ながら、僕はきいた。
「メスはどうしたの?」
「兄貴の科学雑誌のフロクについていた」
と言って彼は銀色のメスを見せた。刃先が夕日に反射してギラついた。僕は、唾を飲んだ。
慣れた手つきでみるみる皮を剥ぎ取り、内蔵を切り取り、目をえぐり出し、彼はカエルを骨だけにした。思わず僕はその場を離れた。少年は立ち去る僕に目もくれず作業を続けた。
三十分くらいしてまた行くと、解体されたチョウチンアンコウのように、各パーツがきれいに缶の中に並べられていた。いったい彼の下腹部はどうなっているのだろう、という疑問を僕はなるべく持たない努力をしていた。
すっと彼は立ち上がった。そして晴れがましい顔で言った。そんな顔をする彼を僕は初めて見た。
「こんなもんか。もっと、興奮するかと思ったのに」
すっかり興ざめした様子だった。
「でも、不思議なんだよな。切っても切っても、カエルの中からは何も出てこないんだ。切っても切っても、カエルはいないんだ」
しばらく僕は茫然としていた。
「もう、やめた。このメス、要るならやろうか?」
僕は頭を横に振った。
「そうか」
彼はメスの刃先を石に押しつけて曲げた。もし僕という他者の立ち会いがなくて、彼が独り陰にこもっていったとしたら・・・。よかったと思った。でも、用心のため、もう、彼には近づかないでおこう。と心配するまでもなく、それ以来、彼を家の近くで見ることはなかった。
数年して、学生服を着た凛々しい彼に偶然出会った。僕の質問に彼は満面の笑顔をたたえて明るく答えた。
「元気だぜ」
このように昭和とは、巷で科学の偉大なる実験が大はやりしていた時代だった、のか?
