大学教授と名乗る亡霊の訪問を受けた。もっとも彼は、自分が亡霊であることに気づいていない様子だった。
「あなたの書いた思考についての考察はまちがっている」
玄関口でいきなり彼はそう言った。年の頃、六十。色あせてたるんだ頬に鼈甲眼鏡、大きめの鼻が印象的だった。ドアを開いたまま持っている右手の小指と薬指には、すこし年期のいった紙袋を掛けていた。
「なんですか?」
「いやだからあ、あなたの思考についての考察は間違っているんだってば」きさくというか、礼儀知らずというか、かなり無邪気な精神であることを彼の言葉が語っていた。「誰も、ああは思わんよ」
「そうですか・・・。洞察したことを自分の中で違和感のないように書いたんですがね」
「どうしようが、まちがっているものは、まちがっているんだ」
「なるほど、では、あなたはどう思うんですか?」
「思うってあんた、まちがってんだよ」
彼の受け皿に合う反論は、『では、何が正しいのですか?』であったようだ。そう尋ねてあげようかとも思ったが、話しをややこしくしてみたくなった。
「思うことに間違いはありませんよ。思うことですから」
なに言ってんだね、あんた、こういうことはね、論理に破綻があっちゃいけないんだよ、などと彼はぶつぶつ言いながら、唐突に自己紹介をし始めた。
「わたしはね、東大出ててね、しかも帝大最後の年でね、助手は一橋でやったよ。助教時代は、いろんな大学を渡り歩いて、筑波大で定年を迎えたよ。それから、東京の私大に招かれた、・・・ところまではおぼえているがね・・・」
その後、この人は脳梗塞にみまわれ、6年間、寝たきりの植物人間だったそうだ。
「じゃあ、あなたはどう思うのか、教えてくださいよ」
「そう言うと思ってね」彼は右手に提げていた紙袋をもちあげた。「3年かけて、まとめてきた」
思考について書いたのは、ほんの二三日前のことだ。
渡された原稿の束を開くと、ちょっと古いタイプのワードプロセッサで打ったような文字が並んでいた。あがりかまちに腰かけてざっと目を通した。それでも二十分は原稿を見ていただろう。デカルト、ヘーゲル、ハイデッカー、メルロ・ポンティ、ドゥルーズ、ヴィットゲンシュタイン、サール・・・。見事に彼らの思考についての言説が抜き出され羅列されていた。
「哲学的思考って嫌いなんですよね。奥行きや高さがないでしょう? すごく限定されたテーブルの上での思考遊びって感じがして」
「感じってなんだね、感じは証明できんよ」
「別に、証明しなくてもかまいませんが。ーーしかもこれ、あなたの思想じゃないでしょ? あなたはどう思うんですか」
「あなたはまちがっている」
「いや、そうじゃなくて、あなたはどう思うんですか?」
「あなたはまちがっている」
「まちがっているというのは、思うことなんですか? 思考について」
「あなたはまちがっている」
男は怒ったように同じことを繰り返した。なにをどう思うおうがこっちの自由でしょう、とか、間違っていることを言うために、こんなにたくさん論文を書いて、ご苦労なこって、などというニヤけた言葉は思いつかなかった。この人の裏には何か鬼気迫るものを感じたからだ。
「思うことや考えることについて、あなたは思うことや考えることはないのですか?」
「まちがったことを世の中にまき散らしてもらっちゃ困る」
「私が何か思うということは、すでにそれが存在しているということではないですか? それを言語化して公表するのに困るのは、あなたの自由な選択にすぎないのではありませんか?」
「わざわざ外に出すことはないだろう。風紀が乱れるだけだよ、人をコ・ン・ラ・ンさせる! わからんのかね」
お安い正義を振り回しているだけなら、こちらも表現の自由を盾に、ますます低俗なことを増長させてやろうかという気にもなったかもしれない。
「著名な哲学者や思想家が書き残したことばかりあなたは取り上げますけどね、それが正しいと誰が証明できるんですか?」
「こういうのは、論理が合っていればいいんだよ」
「論理が合っているかどうかは、どうやって分かるんですか?」
「理性的判断だよ」
「理性的判断が合っているのは、どうやってわかるんですか?」
「それは、解らない」
「分かったとか、腑に落ちたとは、どこがやっている働きなのですか?」
「それも、解らない」
「前提の前提が解らないことを前提に正しいと言われてもね。いいですか、いわゆる天才とか、哲学者とか思想家というのは、形而上のことまで視野に入れて、理性以外の思考まで感じながら、いかにも形而下のことしか扱っていませんというふりをしているように見えます。しかもそういうことは、宗教臭かったり、ある意味誰にとっても当たり前のことであるので、わざと小難しく表現して大衆の参入を防いでいるようにも見えます。それをあなたたち普通の大学従事者が切って貼って、自分の勉強ぶりをひけらかすのに使っている。そんなのはね、せいぜい自己満足にしか役に立たないんですよ。あなたが責任をもってこう思うということはないのですか?」
「わしはなにも思わん。そんなことは、下劣な者のすることだ」
男は肩をふるわせた。ちょっとラフなデザインのスーツは着ているものの、中では交差したホウキの柄が動いていると思えるほど、彼は痩せていた。
「分かりました。あなたは、そこにいるんです。そこに囚われているんです。だから、いつまでもあの世に行かないでこの世をさまよっているんです」
「あの世なんかあるものか」
そう言い切った直後、かれは、ううっと頭をかかえてうずくまった。
「いたい、あたまが、いたい、割れそうだ」
そうして、ばたっとその場に倒れて横臥したかと思うと、身を縮め、うめき始めた。
「ああ、なにも考えられない・・・。なにも・・・・」
「大丈夫ですか?」
亡霊のすることだから、まったくあわてる必要もなかった。彼はすじりもじって叫び声をあげたり、なにかを吐き出すような身のしなり方をしたり、かっかっと咳き込んだりしたが、しばらくすると平静を取り戻した。
「わたしは、なにを思えばいいのかね。なにを思えば正解なのか、教えてくれ。正しいものをどれだけ集めても、完全な正しさにはならんかった・・・。幼いころから、わしは、思うことを自分に禁じてきた。旧制府立四中から東京高校、東京帝大文学部・・・。二流のエリートコースだよ。末は博士か大臣か。そんな言葉が流行っていてね。四中のクソ勉強が僕には、あいや私には性に合っていたよ・・・。子供の時分をいつの頃からかどこかに置きざりにしていたような気がしてならないんだ・・・。
とつとつと思うに任せて男は言葉を継いだ。彼の心の中では繋がった思想の流れも、表に出てくる言葉だけをつなげると、全くの非論理だった。
「思うのは、自由なんですよ。だからこそ、どれかに執着せず、どんどん自分を自由にする思想を選んでいくんです。自分の責任がですよ。思いというのは、生きてうごめいているんです。あなたそのものなんです」
男は、その言葉を黙って聞いた。沈黙が満ちてきた。そうして、どれだけの時間が過ぎただろう、玄関先のグラジオラスにトンボが当たる羽音がしたのをきっかけに、やっと口を開いた。
「そうかね・・・」
あきらめたように男がそうつぶやいたとき、ふっと男の背後に三人の人物が現れた。ひとりは、丸髷というのだろうか日本髪に結った着物姿の四十路の女性。無表情の中に凛とした響きがあった。ひとりは、羽織袴を着た男性。五十くらいであろうか。厳然とした風格が漂い、短髪であったが口ひげが顔からはみ出すくらい長かった。もうひとりは、五歳くらいのちいさな女の子だった。やはり着物で髪には揺れるカンザシをつけていた。
三人は物言わず、悲しげにこちらを見ていた。そうして深々と頭を下げた。
「誰か来られましたよ」男の後ろに目配せした。
「おお・・」
身を起こしながら振り返った男は、驚嘆と懐古の入り交じった声をあげた。
「父上に、母上。・・・お若くなられて。それから、五歳の時に死んだアヤコじゃないか。どうした、こんなところに?」
男は、その場にあぐらをかくようにして座り直した。
「いったいわたしはどうかしている。・・・夢を見ているんだろうか。アヤコ、おいで。兄さんだよ。会いたかった」
アヤコと呼ばれた女の子は、すうっと男の所に行った。
「肺炎をこじらせて。あの時は、僕も、苦しかったよ。見ちゃいられなかった。そうか、良かった。生きていたのか」
女の子がちいさな手を男に差し出した。男は素直にその手を取った。その瞬間、二人の身体をパッと電光が走ったように見えた。
男はすべてを会得したように、女の子の手を取ったまま立ち上がった。そうして両親の前まで歩くと、こっくりと頭をさげた。父親は二三度ちいさくうなづいた。母親はハンケチを口許に当てた。男は、こちらを振り返った。そして、すこし照れたような笑みを浮かべた。
四人はまるでエレベーターにでも乗ったように整然と並び、虚空のある一点を見つめた。そうして四人そろって深々と頭を下げた。
そして消えた。
 
ときどき、こんな訪問者が現れては、去っていく。玄関の扉を閉めた。いつの間にか、あがりかまちに置いていた男の論文も消えていた。