考えろ、とか、考えるな、とか、
よく聞きますね。

どういうことなんでしょうか。

どうやら、胸とか頭のへんでやっている僕らの精神活動のことを
まとめて『思考』と言います。

おそらく、「考えろ」の方は思考の内の、
「思」のことだと思われます。
ゆえに「考えるな」は、「考」の方ということになります。

思うに『想』という字を当てると、すこしニュアンスが異なります。
--あの人のことを想う。とやれば、相手のことが好きだ。
という意味あいを帯びて来ます。
--あの事件での人々の動きを想像する。と言えば、
人間の心理や行動原理を踏まえて、確からしい事実を再現する、
といった意味になるでしょう。
--彼は空想や夢想ばかりにふけって、仕事をしない怠け者だ。
といえば、荒唐無稽な逃避の思案という意味になるでしょう。

実は、思考が切り離されて、『思』か『考』のどちらかだけがなされていることは少ないと思われます。
今、思われますと言いました。これは、観察した結果、そのようになっているという意味です。つまり、『思』は生じている波動を観察して感じ、どのようなものか形容したことを指すのです。

それに比して、『考』は、理性、主に脳が行っている活動の内、概念操作、計算、暗記、カットアンドペースト、データ処理、価値判断、裁判、定義、分離、制限など、左側の脳がやっていると言われている活動のことで、いくらニューロン同士がつながっておらずシナプスを飛ばしているといっても、配電装置や電線の範囲内でしか物を考えられず、非常に限定的なエネルギーの状態です。この波動が行えるのは、過去のデータの閲覧、ルールに照合しての断定、例外を認めない、決めつけ、などなど、たいてい人間、とりわけ若者が嫌ったり悲しんだりすることばかりです。情状酌量などというのは、見える物だけで判断したり、証明されたこと以外の事情をおもんぱかるのですから、これは、『考』ではなく、『情』ということになるでしょう。

たいていの人は、『考』と『情』で生きています。『情』といっても、劣情もあります。
『考』ばかりが発達した人は、なぜかそれを支えている『情』は低度のものが多い。たとえば、主に嫉妬と恨みしか持ち合わせていないとか。浅っぺライ印象を受ける人というのは、そうだと思い当たる節があるでしょう。『情』は、ハートのエネルギー、詰まり慈しみとか愛情を言います。すこし下に引きずられると、同情とか軽い心配に変容します。

さて、『思』は、どんなエネルギーを言うのでしょうか?
これは、意識が放っている波動を感知し、なにがどうなっているかを見分ける能力です。
意思です。おおいなるすべて(神)の意思のことを意志と書いたりしますが、バイブルの最初に書いてある、『初めに言葉ありき』の、『言葉』のことです。もちろん、あの訳は正確ではありません。思い、言葉、行動。右に行くに従って、選択が決定づけられ、波動が強くなって行きますが、同じものの表現の仕方のちがいなのですから、言葉と言っても、思いと言っても同じことではあるかもしれません。けれども、『初めに思いありき』の方がより的を射ていると思います。

つまり、僕たちはすべて、神の思いを持っている。すべてのエネルギーを内包している。それ故に、対象となっている意識の放っている波動がどういうものか、分かるのです。あらゆる物差しをもっているから、相手が出しているエネルギーを感知し、その内のどれかと共鳴して、どれか分かるのです。

けれども、もちろん、自分があらゆる尺度を内包していることを知っていなければなりません。自分の思いにどんなものがあるか知れば知るだけ、他者、あるいは自分自身の思いを自覚することができるのです。

それを意識と言います。意思のレベルや拡大範囲のことを言います。意識が高いとは、意『思』のより多くの次元を明らかにしている、あるいは広範囲に渡って自覚しているという意味です。

「よく考えろ」の方の『思』は「よく観察しろ」と同義なのです。よく観察して、なにがどうなっているか分かったら、では、どう為(な)れば、それが機能するかも分かるのです。この状態に至った意識は、知を有します。知性とか知恵というのは、ある程度以上がみえている、分かっているということです。賢さとは、いわゆる頭の良さとは異なる波動が精妙になった状態です。魂を形容する言葉です。在り様を言っています。

そしてこの『思』は、右脳的ではありますが、実は、その部分だけに限定されているのではありません。

聞いたら驚くかもしれませんが、『思』は宇宙中にあるのです。あるいは、宇宙を投写している根源、すなわちおおいなるすべての一点、いや点にすらなっていないエネルギーのことなのです。ひとつひとつの細胞、単位空間、原子、電子、ニュートリノ、レプトン、タウ・・・。それらにすべて、宇宙の根源が内包されていると言ってもいいかもしれません。ひとつひとつの星、銀河、銀河団、銀河群・・・。それらにすべて、宇宙の根源が内包されているのです。どこにでも、『思』はあります。

直感とか悟性とかそんなものは、私と見なしている『思』が、私と見なしていない『意思』の情報を気まぐれに受け入れただけのことなのです。

そして、『思』は感情のようにも思えます。特に、至福感とか歓喜とか愛とか、そのような思いが、『思』の最も統合したエネルギー状態でしょう。なんでも知っている、なんでも分かっていると思うのは、思い上がりどころか、僕らがこの最高の状態を経験しているからです。けれど、たいていは、狭い狭い自分の『思』つまり、たましいの範囲でのことですが。

感情は『思』の経験できるエネルギー状態なのかもしれません。だから、感情をさぐれば、自分がなにをどう見なしているか、分かります。

『思』と『考』はほぼ同時に生まれます。
順序としては、『思』を『考』で物理次元に表現するのが、流れがスムーズのように思います。『思』を否定して『考』だけでやろうとすると、途端に思考が崩壊していくように思います。なにもかもがバラバラになって、まとまりがつきません。どんなに周囲が理性で、ああだこうだと批判し、裁定し、評論してきても、その理性だけの波動に感化されてはなりません。宇宙が時間を持ってから『考』は発明されたのですから、こちらを先にもってくることは本末転倒になってしまいます。ホーキング博士の『時間順序保護仮説』にも反します。ドン・キホーテみたいな無駄な試みをしているように見えます。頭が良いと自負している人ほど、これをやってしまい勝ちですが、IQ160の僕が言うのですから、早く気づかれた方が時間のロスが少なくていいと思います。カットアンドペーストで論文を書いて給料をもらえればそれでいいや、と言う人は構いません。

けれども、『思』い、それから『考』で表現するというのは、なにも文章だけのことではありません。皿を洗うのも、洗濯物を干すのも、自転車に乗るのも、お釣りを渡すのも、テニスをするのも、ぜんぶそうしているのです。なにがどうなっているか、観察して分かり、それならどうするかを脳が体に指令を出して表現している。『考』だけでやってごらんなさい。ちぐはぐになって、足下をすかされたような不安にさいなまれ、てんでんばらばらになることでしょう。そこには、「ああ、うまくいかない」という『思』い、があるのです。これは、『考』だけの結果あとから生じたように思えますが、実は、初めにあったのです。観察が億劫だから、理性(つまり考)に逃げたのです。

まとめると、考えるな、か 考えろ、ではなくて、よく観て、行動しろということです。つまり、考えるな、そして考えろ、ということです。

誤解が生じそうなので付け加えておきますが、『行動してから考えろ』とか『見る前に飛べ』というのは、やはり、先に理性で考えるなと言っているのです。それは、過去のデータしか扱えませんから、新しい行動はまずできないのです。新しい自分になることもできません。未来のことは『思』い、つまり魂だけが知っているのです。

そして魂はなにを知っているか、知っていますか?
すべて、うまくいくということだけなのです。