長く間があいてしまった。ヤプーとトッポについて書くのは、いささか骨が折れる。よほど温かい目で見てやらなければ、とたんにムカムカしてくるか、あざけり笑いたくなるからだ。それで、何かの拍子にどこかが狂って、すべてを許す慈悲の塊みたいな心境になった時だけ、筆を執ることにした。今夜はたまたま、五年ぶりに鼻水まで出る風邪をひき、脳みそが半分ヤラれて観念が麻痺しているのだろう、余計な感情がわいてきやしない。
ヤプーのやつは、大学にいた時分、専攻している学問とは別に--といっても、哲学を真剣にやるつもりなんてなかったと思うが、--やつにとって最重要テーマというか人生最大の懸案事項があった。『どうすれば、金を稼がずに生きていけるか』である。ともかくやつは、馬みたいに柵の中にヒモにつながれているような生き方、つまりどっかに何十年も雇われて定職に就くのをすこぶる嫌がっていたんだな。
「そんなの簡単じゃないか」とクラスメイトは言った。「刑務所に入るか、精神病院に入院していればいい」
けど、ヤプーは首をふった。それはまるで、手綱をつけられようとした馬がヒヒンと長い首を根元から揺さぶるようなおおげさな素振りだった。やつにとっては、それも自由ではない。極限まで出費を抑えた上で、ふつうの立派な人としての体面は保っていなくてはならない条件付きでのことなのだ。
それでやつの愚痴ときたら、『所有の観念』と『環境破壊』についてである。ともかくこれらについて、やつは事あるごとに口汚くののしった。
「どうして、山が誰かの物なんだ? あそこは木の実もキノコも食べ放題だし、イノシシだっている。どうして、海が誰かの物なんだ? ホタテやアワビを取っちゃいけないだなんて、漁業権なんてクソ食らえだ」などと言う。「池や川の魚だって、汚染されていなけりゃ、捕まえて食えるのに!」
けれど誰も、この無上の不器用者がイノシシや魚を捕まえられるとは思わなかったし、キノコに至っては、百発百中、一本目から毒のあるやつを選び取るとしか信じられなかった。第一、この無類の無精者が野生に分け入って、食べ物を探すなんてありえないと思った。魚釣りなど生まれてこのかた一度だってしたことがなかったんだから。つまりやつの悔しがりようは、単に、それらをしないでいいもっともらしい理屈に過ぎなかったわけだ。
ある夏、ヤプーは繁華街を歩いていた。そしてふと、ある洋品店が目に留まった。ふらっと立ち寄ったその店の入り口に置かれたワゴンのTシャツを見つけた時、やつは本当にとんきょうな声をあげたんだ。いや、この話しに行く前に、ヤプーの実験についていくつか紹介しておこう。実践するのは、大学卒業後、親からの仕送りがなくなってからだ。それまでの間に、これはという方法を見つけておかなければならない。この点じゃ、やつには焦りがあったな。
まずやつはいっとき、パンの耳だけで生活することを思いついた。近くの商店街にあるちいさなパン屋に行っては、サンドイッチ用の耳なしパンを作るために切り落とした耳をいっぱい集めたお徳用袋を買ってきた。50円だった。
「おまえ、そんなもんばっかり食ってると、いまに耳のないウサギになるぞ」
クラスメイトが冗談で言った。ゲッ! とやつは反応した。十年ばかり前に、パンの耳ばかり食べさせられていたウサギが、耳のない奇形の子ウサギを産んだという事件はまだ記憶の片隅に残っていたのだろう。ちがった。やつは自分の大事な実験にちゃちゃを入れられて怒っていたのだった。それからもやつはそのパン屋におもむき、お徳用袋を買い込んだ。その内、店の人からも顔をおぼえられ、特別あつかいで、取り置きしていてくれるようにはならず、最初、好きなだけ買えたのが、二袋までに制限され、一袋までになり、とうとう売ってくれなくなった。けれどもその頃には、この方法が失敗であることにやつは気づき始めていたのだった。体調を崩して、薬代の方が高くついたのである。
次にやつが目をつけたのは、食い放題のピザ屋だった。はじめ周囲の者たちは、なぜに彼が毎日毎日、昼になると一回1700円もするその店に通い詰めるのか不思議だった。しかも同行した者の報告によると、元々食の細いヤプーはせっかくの食い放題というのに、ピザ1切れか2切れしか食べられないというのだ。要するにやつは、様子をうかがっていたのである。どうやって、一回1700円を支払って、元を取れる以上の量を腹以外に入れて持ち出すかを。5回目か6回目に、やつは最初の犯行をはたらいた。いつものように冷凍を戻したまずいピザを少しだけかじると、やつは店員の目線の自分に注がれるのが外れたのを見計らい、それをクイックモーションで、ポロシャツと腹の間にしのばせた。そして何食わぬ顔で、おもむろに席を立ち、出口の階段に向かった。その店は地下にあったので、受付のまん前を通って急な階段をのぼらなければならなかた。ビクビク、オドオド、きょろきょろ、ドキドキ。罪悪感を背中いっぱいにたたえて、やつは階段を踏みしめた。長かった。死刑台のエレベーターのようだったとやつはのちに語った。
そうして店から歯形付きのピザをまんまと一切れ持ち出したヤプーは、自分に少々不手際があったのをさとった。腹がケチャップでべとべとになり、ズボンもポロシャツも赤い染みを作り、おまけにエビがブリーフの中に入り込んでいたのである。というのもやつには、シャツの類いはブリーフの中にちゃんとしまっておかなければいけないという主義があったからだ。
ヤプーのやつは、大学にいた時分、専攻している学問とは別に--といっても、哲学を真剣にやるつもりなんてなかったと思うが、--やつにとって最重要テーマというか人生最大の懸案事項があった。『どうすれば、金を稼がずに生きていけるか』である。ともかくやつは、馬みたいに柵の中にヒモにつながれているような生き方、つまりどっかに何十年も雇われて定職に就くのをすこぶる嫌がっていたんだな。
「そんなの簡単じゃないか」とクラスメイトは言った。「刑務所に入るか、精神病院に入院していればいい」
けど、ヤプーは首をふった。それはまるで、手綱をつけられようとした馬がヒヒンと長い首を根元から揺さぶるようなおおげさな素振りだった。やつにとっては、それも自由ではない。極限まで出費を抑えた上で、ふつうの立派な人としての体面は保っていなくてはならない条件付きでのことなのだ。
それでやつの愚痴ときたら、『所有の観念』と『環境破壊』についてである。ともかくこれらについて、やつは事あるごとに口汚くののしった。
「どうして、山が誰かの物なんだ? あそこは木の実もキノコも食べ放題だし、イノシシだっている。どうして、海が誰かの物なんだ? ホタテやアワビを取っちゃいけないだなんて、漁業権なんてクソ食らえだ」などと言う。「池や川の魚だって、汚染されていなけりゃ、捕まえて食えるのに!」
けれど誰も、この無上の不器用者がイノシシや魚を捕まえられるとは思わなかったし、キノコに至っては、百発百中、一本目から毒のあるやつを選び取るとしか信じられなかった。第一、この無類の無精者が野生に分け入って、食べ物を探すなんてありえないと思った。魚釣りなど生まれてこのかた一度だってしたことがなかったんだから。つまりやつの悔しがりようは、単に、それらをしないでいいもっともらしい理屈に過ぎなかったわけだ。
ある夏、ヤプーは繁華街を歩いていた。そしてふと、ある洋品店が目に留まった。ふらっと立ち寄ったその店の入り口に置かれたワゴンのTシャツを見つけた時、やつは本当にとんきょうな声をあげたんだ。いや、この話しに行く前に、ヤプーの実験についていくつか紹介しておこう。実践するのは、大学卒業後、親からの仕送りがなくなってからだ。それまでの間に、これはという方法を見つけておかなければならない。この点じゃ、やつには焦りがあったな。
まずやつはいっとき、パンの耳だけで生活することを思いついた。近くの商店街にあるちいさなパン屋に行っては、サンドイッチ用の耳なしパンを作るために切り落とした耳をいっぱい集めたお徳用袋を買ってきた。50円だった。
「おまえ、そんなもんばっかり食ってると、いまに耳のないウサギになるぞ」
クラスメイトが冗談で言った。ゲッ! とやつは反応した。十年ばかり前に、パンの耳ばかり食べさせられていたウサギが、耳のない奇形の子ウサギを産んだという事件はまだ記憶の片隅に残っていたのだろう。ちがった。やつは自分の大事な実験にちゃちゃを入れられて怒っていたのだった。それからもやつはそのパン屋におもむき、お徳用袋を買い込んだ。その内、店の人からも顔をおぼえられ、特別あつかいで、取り置きしていてくれるようにはならず、最初、好きなだけ買えたのが、二袋までに制限され、一袋までになり、とうとう売ってくれなくなった。けれどもその頃には、この方法が失敗であることにやつは気づき始めていたのだった。体調を崩して、薬代の方が高くついたのである。
次にやつが目をつけたのは、食い放題のピザ屋だった。はじめ周囲の者たちは、なぜに彼が毎日毎日、昼になると一回1700円もするその店に通い詰めるのか不思議だった。しかも同行した者の報告によると、元々食の細いヤプーはせっかくの食い放題というのに、ピザ1切れか2切れしか食べられないというのだ。要するにやつは、様子をうかがっていたのである。どうやって、一回1700円を支払って、元を取れる以上の量を腹以外に入れて持ち出すかを。5回目か6回目に、やつは最初の犯行をはたらいた。いつものように冷凍を戻したまずいピザを少しだけかじると、やつは店員の目線の自分に注がれるのが外れたのを見計らい、それをクイックモーションで、ポロシャツと腹の間にしのばせた。そして何食わぬ顔で、おもむろに席を立ち、出口の階段に向かった。その店は地下にあったので、受付のまん前を通って急な階段をのぼらなければならなかた。ビクビク、オドオド、きょろきょろ、ドキドキ。罪悪感を背中いっぱいにたたえて、やつは階段を踏みしめた。長かった。死刑台のエレベーターのようだったとやつはのちに語った。
そうして店から歯形付きのピザをまんまと一切れ持ち出したヤプーは、自分に少々不手際があったのをさとった。腹がケチャップでべとべとになり、ズボンもポロシャツも赤い染みを作り、おまけにエビがブリーフの中に入り込んでいたのである。というのもやつには、シャツの類いはブリーフの中にちゃんとしまっておかなければいけないという主義があったからだ。
