『可能性』と聞く時、
私が思い浮かべるのは、
豊臣秀吉や松下幸之助である。

これはこういうものだ。
A=B
という方程式には制限がある。

たとえば、
世の中はしょせん金だ。
偏差値50はC高校だ。

けれども、
単に、こうだ。
というのは、方程式ではない。

『こうだ』
というのに過ぎない。
絶対の世界なのだ。

根拠など要らない。
過去は過去。
今は今。

もし、『こうだ』の前に
何かつけるなら、
『私』である。

私はダメだ。
私は悲しみだ。
私はこのくらいだ。

私は創造だ。
私は愛だ。
私は真理だ。

それは、過去の実績や今いる地点からの
予測可能な(予測し得る)距離、
見える範囲、せいぜい、見える範囲の周縁まで、

を意味していない。
過去の実績がどうであれ、
ここだ!

私は、ここだ。
私はここだ。
私はここ、だ。

これが、テレポーテーションであり、
ワープであり、異次元、
あるいは望むパラレルワールドへのトリップなのだ。

ここにいる、居座り続けるという猛烈な
意志。
自分の望む最高の状態に居座り続ける。

最高の状態をどう観るか?
豊臣秀吉や松下幸之助は、どう観ていたか。
最高の状態をなんと思っていたか。

高次元への進化。
僕はそう観た。
より高周波になっていくことだ。

そのことを、
豊臣秀吉は『統一』と言ったのかもしれなし、
松下幸之助は『共存共栄』と表したかもしれない。

予測可能範囲や見える範囲でない所。
リープ、ワープ、テレポーテーション。
それが、可能なのだ。

わたしたちは、ここにいることができる。
わたしたちは、ここにいることができる。
わたしたちは、ここにいることができる。

それが、可能性を超えた、可能なことだ。
予測を超えろ!
常識を超えろ!

偏差値がいくつだから、このくらいかな、
A高校、B大学だから、C会社くらいか、
もう40歳だから、終わりだな、

そんな方程式の中にいなければならないなんて、
すべてが過去の延長線上なんて、
幻想だ。

わたしたちは、調和にいることができる。
わたしたちは、創造にいることができる。
わたしたちは、幸福にいることができる。

わたしは、真理にいることができる。
わたしは、喜びにいることができる。
わたしは、進化にいることができる。

ここだ! ここだ! ここだ!
ここだ! ここだ! ここだ!
ここだ! ここだ! ここだ!

豊臣秀吉も松下幸之助も、彼らの成し遂げた事業を
彼らの前半生を共に生きた人々が予測できただろうか。
最初から彼らは『ここ』にいて、そうなるように誰かがツジツマを合わせただけだ。

論理や、積み上げて来たことの先に『ここ』があるのではない。
もしそういう言い方が好きなら、『ここ』にいたからこそ、
感謝と喜びで目の前の仕事を誠心誠意楽しんだからこそ、『ここ』に到達したのだ。

ただ、ここ、にいることができる。
それが、本当の可能性だ。
本当に可能なことだ。