チャネラーも観客も立場は同じ。
当たり前のことじゃないか?
両者ともが、本を読んだり映画を観たりしているのと、なんら違いない。
降りてきたメッセージから学ばなければならないのは同じこと。
学ぶ意志があるなら。
だから、チャネラーをあがめるのもけなすのもお門違い。
もし、チャネラーだからといって威張っているのなら、
そいつの言っていることは、たいしたことではない。
もし、チャネリング情報を知っているからといって威張っているなら、
そいつの学んでいることは、たいしたことではない。
それだけのことじゃないか。
答えは、たしかにスピリチュアルにある。
そこが自分の中心で、創造の源だからだ。
けれど、スピリチュアルの答えは、その境地に在る他人の出した答えだ。
『悟りとは、結果を放棄することである。決して情熱を放棄することではない』
はひとつのスピリチュアルの答えなんだけど、
『しょせん、世の中足の引っ張りあいだよね』もスピリチュアルの答えなんだ。
それが、本気の行動指針なら、創造の原理が働く。
たとえ高次元にいる者の答えを暗記して、理性でこねくり回しても、
低い霊性に支えられていれば、依然として低い。
いわゆる現実逃避に使っても、心は嘘だと知っているから、
相変わらず嘆きや愚痴が絶えないだろう。
かといって、スピリチュアルは嘘っぱちだと分離と二元性にもどって熟睡すれば、
自分の創り出している現状を自分が創り出していると知らずに悔やみ続けるだろう。慢性の病気や運の悪さを創り出した上に、呪い続けるだろう。眠ったまま、理性のみを激しく働かせ、鬱とか胃腸や関節の持病をかかえているのを精神が高いとか知的だとか勘違いしている。そういうのは、高慢稚気という言葉が別にある。健康状態の悪い奴に知性はない。利口ではあるかも知れないけど。魂で観じたり、思考したことをうまく表現するのに理性を含む肉体を使うんだ。文句があるなら、言ってみな。おまえは、病気なんだぜ。精神がガタガタなんだ。こちとら、風邪ひとつひかない原始人みたいな大馬鹿なんだ。おまえは、自分の現状や社会を嘆いているんだ。よわっちい奴なんだ。理想じゃないことを見つけては、嫌悪で不快感をつのらせているんだぜ。かかってこいよ、ひっこみじあんちゃん。ちゃん。弱者の気持ちばかり他人にわからせようとする、なんにもしない正義の味方なんだ。繊細なガラスの心臓なんざ、どうせ下半身攻撃しか能がないだろう? バラすなよ、品性下劣だってことを。
自分より楽な境地に在る者の出した答えを知って、それと同等以上の答えを出した時、
やっと自分の答えになる。
そして、それは当座のものだ。
次の瞬間、もっと高度化していないなら、すぐに固まる。
固まったら、ボロボロと崩れていく。
固まらないのを一貫性のないことと批判する人がいる。コロコロ変わると。
進化しているという点では、一貫しているじゃないか?
一貫して、五十年も同じ観念にこだわっているのは、とても奇特なことだ。
いつ会っても同じことを嘆き嫉む人。
そういう人ほど、他人の顔色や流行すたりでコロコロ意見を変えるように見えるのは、こちらの気のせいか。
分からないことを分かっていくんだ。
もういちど言う、分からないことを分かっていくんだ。
すべては分け隔てないことを分かっていくということは、
曖昧模糊にいらいらしたり、なにも解らないと放棄したりすることじゃない。
なにがどうなっているか、細かく観じているということなんだ。
その観察眼を、自分がいかに社会の被害者であるかを
あの手この手で証明していこうとすることに使うのはもったいない。
どうせなら、自分がいかに創造者であるかを観じていこう。
でも、いいのだ。どれもこれも、遊びだ。
眠ったまま忙しく肉体労働に汗しても、醒めて、余裕で知的遊戯にいそしんでも。
どっちでも優劣はない。
好き好んでやっているのだ、どちらにしても。
好き好んでやっているのだ、どちらにしても。
好き好んでやっているのだ、どちらにしても。
そのことを忘れるくらい没頭しているのを忘れるくらい没頭しているからといって、
別段責められたことでもない。
地球では、どちらでもできる。どちらでもできる、地球では。
なんて、素敵な星なのか。
当たり前のことじゃないか?
両者ともが、本を読んだり映画を観たりしているのと、なんら違いない。
降りてきたメッセージから学ばなければならないのは同じこと。
学ぶ意志があるなら。
だから、チャネラーをあがめるのもけなすのもお門違い。
もし、チャネラーだからといって威張っているのなら、
そいつの言っていることは、たいしたことではない。
もし、チャネリング情報を知っているからといって威張っているなら、
そいつの学んでいることは、たいしたことではない。
それだけのことじゃないか。
答えは、たしかにスピリチュアルにある。
そこが自分の中心で、創造の源だからだ。
けれど、スピリチュアルの答えは、その境地に在る他人の出した答えだ。
『悟りとは、結果を放棄することである。決して情熱を放棄することではない』
はひとつのスピリチュアルの答えなんだけど、
『しょせん、世の中足の引っ張りあいだよね』もスピリチュアルの答えなんだ。
それが、本気の行動指針なら、創造の原理が働く。
たとえ高次元にいる者の答えを暗記して、理性でこねくり回しても、
低い霊性に支えられていれば、依然として低い。
いわゆる現実逃避に使っても、心は嘘だと知っているから、
相変わらず嘆きや愚痴が絶えないだろう。
かといって、スピリチュアルは嘘っぱちだと分離と二元性にもどって熟睡すれば、
自分の創り出している現状を自分が創り出していると知らずに悔やみ続けるだろう。慢性の病気や運の悪さを創り出した上に、呪い続けるだろう。眠ったまま、理性のみを激しく働かせ、鬱とか胃腸や関節の持病をかかえているのを精神が高いとか知的だとか勘違いしている。そういうのは、高慢稚気という言葉が別にある。健康状態の悪い奴に知性はない。利口ではあるかも知れないけど。魂で観じたり、思考したことをうまく表現するのに理性を含む肉体を使うんだ。文句があるなら、言ってみな。おまえは、病気なんだぜ。精神がガタガタなんだ。こちとら、風邪ひとつひかない原始人みたいな大馬鹿なんだ。おまえは、自分の現状や社会を嘆いているんだ。よわっちい奴なんだ。理想じゃないことを見つけては、嫌悪で不快感をつのらせているんだぜ。かかってこいよ、ひっこみじあんちゃん。ちゃん。弱者の気持ちばかり他人にわからせようとする、なんにもしない正義の味方なんだ。繊細なガラスの心臓なんざ、どうせ下半身攻撃しか能がないだろう? バラすなよ、品性下劣だってことを。
自分より楽な境地に在る者の出した答えを知って、それと同等以上の答えを出した時、
やっと自分の答えになる。
そして、それは当座のものだ。
次の瞬間、もっと高度化していないなら、すぐに固まる。
固まったら、ボロボロと崩れていく。
固まらないのを一貫性のないことと批判する人がいる。コロコロ変わると。
進化しているという点では、一貫しているじゃないか?
一貫して、五十年も同じ観念にこだわっているのは、とても奇特なことだ。
いつ会っても同じことを嘆き嫉む人。
そういう人ほど、他人の顔色や流行すたりでコロコロ意見を変えるように見えるのは、こちらの気のせいか。
分からないことを分かっていくんだ。
もういちど言う、分からないことを分かっていくんだ。
すべては分け隔てないことを分かっていくということは、
曖昧模糊にいらいらしたり、なにも解らないと放棄したりすることじゃない。
なにがどうなっているか、細かく観じているということなんだ。
その観察眼を、自分がいかに社会の被害者であるかを
あの手この手で証明していこうとすることに使うのはもったいない。
どうせなら、自分がいかに創造者であるかを観じていこう。
でも、いいのだ。どれもこれも、遊びだ。
眠ったまま忙しく肉体労働に汗しても、醒めて、余裕で知的遊戯にいそしんでも。
どっちでも優劣はない。
好き好んでやっているのだ、どちらにしても。
好き好んでやっているのだ、どちらにしても。
好き好んでやっているのだ、どちらにしても。
そのことを忘れるくらい没頭しているのを忘れるくらい没頭しているからといって、
別段責められたことでもない。
地球では、どちらでもできる。どちらでもできる、地球では。
なんて、素敵な星なのか。
