子供が泣いていた。
親に折檻でもされている? 
と思えるほど、なにかを吐き出すような大声で、ごーごーと喉をからして。
「うちではああいう泣き方を子供にさせたことはない」
私は、遊びに来ていた母に言った。本当に一度もなかったかな、と検証しながらも身内への気の置けなさがそう言わせた。
「おかあさんをさがしてるんだろ」などと言って母は気にも留めないでいる。
「いやあ、子供にもよるし、ちっちゃい子はあんな泣き方をするけど、なんか尋常じゃないね」
「わたしも」母も当然のごとくに同調した。「あんな泣き方させたことない」
「いや。あったよ、おぼえているもの。自分があんなふうに泣いたの」
すかさず私は恨みを返す。また母お得意の忘却と責任転嫁かなと思わないでもない。

泣き声がやまない。私はベランダに出た。発信源は、団地のすぐ下の坂道であるが、ここからは見えない。泣き声がだんだんと緩い勾配を登ってきた。そして、幼稚園の制服を来たちいさな2歳くらいの女の子が姿を現した。どうやら、ひとりでバスを降りたらしい。こういうことは普通しない。もし迎えが来ていなければ、幼稚園は子供をバスに乗せてかえる。きっと、連絡が入っていたのだろう。
「だいじょうぶか?」
私が声をかける。子供はどこから呼びかけられたのか分からず、泣くのを忘れてキョロキョロした。
「ここだよ」
子供は、4階の私を見つけた。そして、泣くのを再開した。
「ちょっと、待ってて、すぐ行くから」
そう言って階段を降りていこうかと思ったとき、視線を感じた。百メートルくらい離れたところに女の人が歩いてくる。母親だな、と直感した。
「あれは、お母さんかな」
子供に向かって言った。子供は母親を認めると今度はすこし音色の違う声で泣きはじめ、たどたどしい足取りで歩を進めた。母親はペースをかえず、ゆっくりと近づいてくる。もう、私の出る幕ではない。部屋にひっこんだ。ちょっとして確認すると、おんぶされた子供の姿が見えた。

私は、テーブルに母と面と向かって腰かけた。顔を見ると、歳は70になったが、ニコやかで少しも不安げな様子がない。かつての刺々しさもどこかに消えうせた。
余計なことを言ったかな、と反省した。
あの時の母なら、確かに私を号泣させただろう。しかめ面をして、辛そうに生きていたあの時なら。すべてが理想とちがうと嘆き、苛々ジメジメしていたあの時なら。
けれども今の彼女の過去には、それはなかった。覚えていないのも無理はないどころか、そういうことはなかったのだ。忘れているのではない。思い出せないのだ。
「やっぱり、なかったよ」
「なにが?」
「いや、なかったよ」
母は深くは聞かなかった。
それでいいのだと思った。わざわざ、不幸な過去をもつ今の彼女を呼び戻してやることはない。私も、そんな過去をもつのはやめにしよう。
「あんなふうに泣いたことはないよ、一度も」
聞いて、母はちょっと首をかしげた。
私は微笑んだ。