よくある見解なのですけど、
映画なり小説なり、漫画や歌、あるいは科学エッセイさえ
どう観ようが読者の勝手というものがあります。

書き手なり伝え手なりがそう言うだけでなく、
読者なり観客もそう主張する。

確かに送り手側は、受け手側の解釈をコントロールすることはできません。
けれども、やはり送り手が送っていることはあると思います。
少なくとも、意図して送っている意というものがあります。
さらに意図せず送っている意もあるでしょう。

ところがそれを受信し、再構築し直すのは受け手側に任されます。
受け手側が受けたものが、送られたそのままだったか、それとも
ズレたものなのか。

いずれにしろ、両者の間を行ったり来たりする内に、
その中央に新しい何かが創造されるのではないかと思います。
送り手が送ったものとは別に、送り手と受けての間に新しい見方が出来るのです。

もしかすると、この両者の間に、送った以上のものが創造されるかもしれませんし、
また逆に、以下のものが創出されるかもしれません。

ですからわたしは、作品とは、両者で創り上げるもの、
両者の間にあるものという見方を採用するしかありません。

そしてこのことは、人間が人間と表記されることと同じ理由であると思います。
相手という人物は、相手が相手であるのではなく、お互いが
自分の見方をすることでふたりの間に創り出した別人物であるということです。

会話なり、やりとりを続けていく内に、やがてそれが両者の間に創り出されて一致していくでしょう。

固定した相手像か、変化していく相手像かにしろ。

相手とは、自分と相手の共同作業で創り出した人物なのだと観ないと、
相手だけがこういうヒトトナリだと分かったような気になってしまうかもしれません。
そしてそれはたいてい相手に全く自分自身を見いだして、悪口を言うという態度になってしまいがちです。
相手という人物像を創るのに自分も参加していることは忘れないようにしなければ、
と思います。

したがって、相手が自分を低く見るのは、先入観で決めつけている、決めつけ続けているのを別として、やはり自分の放つエネルギーの高さにも原因があると観らざるを得ません。

趣味に合致したものや人以外、すべてアウト、下劣だとみる人は、たいてい他人の自分への見方に不満をかかえていたりします。こういう人は、表向きには、頭ごなしにスゲ、スゲと連発したりします。
両者の間に出来たものが、自分が送り出していると感じているものより高いものだとしたら、シメシメと思うでしょうし、低ければワカッテクレナイと思うかも知れません。

一方、送り手が放っているエネルギーをできるだけ正確に感じ取り、そしてそれによって何か深いことを見いだそう、思い出そうとする人は、たいてい他人の自分への見方に自由を認めています。そしてこの自由という意味は、突き放したり無関心や独り善がりなのではなく、両者で創造していることを踏まえた上での自由観なのでしょう。
両者の間に出来たものが、自分が送り出していると感じているものより高いものだとしたら、シマッタと思うでしょうし、低ければナルホドと思うかも知れません。

送り手と受け手、人と人。
相手は、常に両者の間に立っており、
両者で創り出している。

このことを忘れては、なにも観えない。
と私は思います。

したがって、その創造物を高めるも低めるも、
自分の在り方と見方によるということなのだ。
自分が進化していってこそ、高められる。

低めようと思えば、停滞すればいい。
停滞すれば頑張って苦労して退行していくことになる。
進化は自動だ。ただ、そうで在ることを許可すればいい。

などとつらつら思いながら、こんな考えにどこか懐かしい気がしてきたのでした。