昭和を熱く語る上で、やはりあの文房具については避けて通れない。ということで、

                     ツトムくん

母が指定した、遊んでイイ子にツトムくんという男の子がいた。僕よりも一級上で、耳がおおきく色白の、聡明な感じのする男の子だった。母はちょうどその頃流行った童謡をうたっては、ツトムという名前の子供がいたいけな心の持ち主であろうと勝手に想像をめぐらせていたにちがいない。昼間ひとりで家にひきこもっている自分と重ね合わせた感傷的なツトムくん像をよく僕に語って聞かせたものだ。
ツトムくんはたしかに物腰も言葉遣いも柔らかかったし、意地悪なことは決してしなかった。それどころか、粗暴な僕とつきあわされた彼の方が困ったことだろう。一年生になって、僕はツトムくんに引き合わされ、彼ともう一人二人を加えたメンバーで小学校に通うことになった。登校班を組ませる相手として、自分の息子には非の打ち所がないと断定している母がどこからともなく見つけてきたのである。
同じころ流行った物に『ゾウが踏んでも壊れない』というふれこみの筆箱があった。その筆箱は、高剛性のプラスチックでできているから、数トンはあろうかと思われる、およそ僕らの知るかぎりでは最大の体重を持つおとなゾウが乗ってもビクともしないという映像がコマーシャルでひっきりなしに流れていたのである。
いまにしてみれば、ゾウの、野生の動物にしては、いや人間を含めても類いまれな『人間言語理解忠実実行能力』にまんまと騙されていたのであるが、僕らはてっきり本当にゾウが体重をかけて踏んでも壊れないおそろしく硬い筆箱だと信じ込んだものだ。
「ねえ、買ってよ」
と僕は甘ったるい声で母に言った。
「ダメ」
家事の途中の母は不機嫌に顔をしかめ、僕の目も見ずに不許可の承諾をした。
「いま、あれを買っておけば、いっしょうもつんだよ」
「ダメ、ダメ」
「買って、買って、買って」
「おとうさんに言いなさい」
母は逃げ口上を打つと、さっさとその場を離れた。

当時の常識的な筆入れの値段と比較しても、ゾウが踏んでも壊れない筆箱は高額で、また収入と勘案しても、エンゲル係数が最大だった我が家では、敵以外の何者でもなかった。しかも、金がない、が口癖の政夫くんが、なんの条件もつけずに「いい」と言うはずがない。僕と『ゾウが踏んでも壊れない筆箱』の間に立ちふさがる厚い壁だった。でも、一応、頼んではみた。
「このあいだ買ってやったばかりじゃないか。それが壊れてから買え」
「あれを買うともう、一生買わなくてよくなるんだよ、絶対に壊れないんだから」
「なんば馬鹿のごたっことば言うて」
じゃけんに断られて、僕はひどくがっかりした。
代償行為に走って、僕はどうにか物欲をなだめすかした。すでに持っていた筆箱にビニールテープをぐるぐる巻きにしたり、セメダインを塗り付けたりしては疑似の耐性補強をほどこして慰め、やっとあきらめをつけようとしたそんな矢先のある朝のことだった。

先頭を歩いていたツトムくんが、うしろを振り返りちいさな声でささやくように言った。
「今日、あの筆箱を買いに行く」
かねてより、あの筆箱についてあれこれ噂ばなしをしていたわれわれは、あまりの衝撃に声も出なかった。なぜかみんなうつむいて黙っていた。
「明日の朝、持ってくるから、みんなでためそうよ」
ドキドキするとかワクワクするというのではなく、ツトムくんの優しさに反してわきあがる嫉妬と羨望を押し殺した背徳的な気分を僕は味わっていた。しかし彼は何をためそうというのか、という疑問がなかったわけではない。
学校が終わって家に帰ると、セメダインを塗って強度を高めようとして、かえって溶剤で溶けてしまったプラスチックの筆箱と、ビニールテープの粘着剤でベトベトになったウレタン製の筆箱を僕は物悲しく見つめた。金さえあれば・・・。ケチな両親をうらめしく思うことで、愚かな自分に気づかないようにつとめていた。

果たして朝もやけむる次の日の登校時、社宅が見えなくなる細い坂道にさしかかったのを見計らって、ツトムくんが立ち止まった。まるで忘れてしまっていたかのように、誰もそのことを話題にしなかったし、催促することもなかった。他の登校班がいないことを確認し、ツトムくんは立ったまま、からっていたランドセルを肩からはずして前にもってきた。そうして扉を開けると、中に手を入れ、
「ほら」
と言って、一個の筆箱を取りだした。
それはまだ、しわひとつついていない保護用のビニールがかけられたままだった。ツトムくんは購入後も初期の状態を保つために、開けていじり回したいという誘惑にも負けず、じっと放置しておける忍耐力の持ち主だったのだ。初めての興奮をみんなでかみしめようという彼の心遣いが小憎らしい。
僕らは唾を飲み、ただただ黙って立ち尽くすばかりだった。ツトムくんは、そっとビニールから筆箱を抜き出した。それは手垢もついておらずピカピカだった。赤か緑か忘れたが、半透明のプラスチック製で、手の中に収まりそうなくらいの小振りなペンケースだった。なんの変哲もない、どこにでも売っていそうな安物に見えるこのペンケースには、偉大な強さが秘められているのだと思うと、あなどれないという気持ちがわいてきた。
この色を選んだ理由をツトムくんは誇らしげな様子で子細に説明した。彼の前置きはずいぶん長く感じられた。それが終わるとツトムくんは、自分の顔の前に筆箱をかざした、かと思うと唐突に地面に放り投げたのである。僕らの間に緊張が走った。
「いくよ」
言うが早いか、彼は足をあげると、ゾウが踏んでも壊れないペンケースめがけて、杵をつくかのようにおもいっきり踏みつけた。

どことなく慌ただしい朝の喧騒と興奮のせいで、音はかき消されていた。
ペンケースはツトムくんの靴の下にすっぽりと隠れていて、どうなっているか肉眼で確認するのは困難だった。
僕は、この筆箱がゾウが踏んでも壊れないくらいの耐衝撃性を有しなければならない理由は、以下の二点にあるとばかり考えていた。定規やらコンパスやら消しゴムやらを満タンに詰めて、位置エネルギーを最大にした状態で誤って机から落下せしめたる時に耐え忍ぶため。あるいは、辞典や図書などの重量級の本の入ったランドセルが、わさわさと動けるだけの適度な自由度を有していた時に全力疾走してしまっても、ランドセル内での押しくらまんじゅうに負けないためである。それをよもや人間が、親のカタキがごとく激しく踏みつけようとは夢にも思わなかった。

ツトムくんは、おもむろに足をあげた。すでに実験の結果を足の裏の感触で察知していたのか、彼は奇っ怪な薄笑いをうかべていた。ツトムくんの足のあった場所には、潰れてひしゃげ木っ端みじんに割れた、ゾウが踏んでも壊れない筆箱の残がいが見つかった。
「うん」
こともなげにそう言うと、ツトムくんは残がいを拾い上げ、納得したかのようにうなづいた。そうして、元のビニールに戻すと、ランドセルにしまいこみ、「行こう」と言った。僕らはぞろぞろと彼の後をついていったが、学校に着くまでの小一時間、なぜだか誰もひとことも発しようとはしなかった。
他の誰かが踏みつける役を担っていたとしたら・・・。もしものことを案じて、一番に自らを選んで手を下したツトムくんのこころづかいがびんびん響いてきた。

いちども鉛筆を収納されることもなくその役目を終えたペンケース。世界で一番強くて長持ちするはずだったペンケース。

そのころからだっただろうか、急にあのコマーシャルが流れなくなったのは。


おわかりの通り、昭和とは、非常に寛大な時代だったのだ。