前回の話し、ちょっと端折った部分がある。母の名誉のために嘘をついたのです。とても後悔しました。どうしてもそれだけはできません。嘘はぜったいにいけないと母に教えられたからです。いや、それ以上に、昭和という時代を徹底的に検証し尽くさなければならないという使命を僕はもっているのだ。
実は、僕が学校の指定する通りに蟯虫検査キットを出したのは、三度目のことだった。
二度目にはフィルムを剥がして素直に僕の肛門に貼り付けはしたものの、どういうわけか、母はこう言い出した。
「いや。やっぱり、すこしは持っていった方がいい!」
なんだか人生最大の決意にも似た猛烈な勢いがあった。
「はい、もういっかい便所にしゃがみなさい」
言い出したら聞きやしない。ーー強情なのか、間違いを認めたくないのか。
「はい、ぐっと、そこで止めて!」
ヒステリックな声で指示を出した。
「出過ぎ、出過ぎ。ひっこめて!」
ほんのちょっぴりしぶり出すのに、僕はたいへん苦労した。
「はい、そこ、そこ。そこで力をいれて! よーし」
言って母はシールを貼りもどし、下唇をうっと裏返しながら、指でうねうねフィルムの中のウンコの形を整えた。耳かき大盛りいっぱいくらいの量だった。
「これを持っていきなさい。封筒に入れておくからね」
その日の放課後、僕はふたたび保健室に呼ばれ、黙ってキットを渡された。うつむきかげんに先生がおっしゃった。
「ウンコはすこしもいりません」
このように昭和とは、前の時代をひきずっていたのである。さて、その年の秋だったか、その次の年だったか、いやその年の秋、高学年の女子生徒がいろめきたっていた。
「なにがあるの?」一人の女子生徒をつかまえてたずねると、興奮したように言った。
「田中健がくるのよ」
どこで聞きつけたのか、それは根も葉もない噂ではないようだった。
僕の小学校は、あの全国展開している熊野神社のすぐ横にあった。おおきな松明をつける大掛かりな祭りをするので有名だったが、僕にとっては、上棟式か何かで餅投げがあるというので行ったら、高い屋根から落下してきた餅が目に直撃したという痛い思い出で有名だった。
放課後の運動場にはたくさんの生徒が居残り、かれにサインをねだろうと屯していた。なぜか色紙を用意していた生徒もいたが、ノートの切れっぱしとか、上靴とか、中にはそのへんで拾った葉っぱを持っている者もいた。
「いつくるの?」
「もうすぐよ。いま、校長先生にあいさつしているところ」
そんなにありがたい人なら見て帰ろうかとしばらく待っていたが、いっこうに現れない。業を煮やした僕はちょっとふてくされて踵を返した。芸能人に興味がなかったし、有名人をありがたがる風習もよく分からなかった。西の空を見ると、夕日のオレンジが黒っぽく変わり始めていたこともある。そうして門を出て右に折れ、いつもの通学路についた。まだ敷地内の植木沿いに歩いていると、ワッと歓声があがった。きっと、その田中某という輩が生徒の前に現れたのにちがいない。
『青春の門』とかいう、これまた同郷の五木寛之が書いた小説の映画が公開されるちょっと前のつかのまの休みに母校に凱旋報告にやってきたのだ、と母の妹である絹絵姉さんは言った。
「人気に火がつく一月前ってとこね」
したり顔で絹絵ねえさんは言った。ちょっと残念な気がした。僕は、引き返さなかったからだ。
本当はここからクラスメイトの渥美くんのことを書こうと予定していたのですが、母のことを書いたからには、父のことも書かなければならないだろうと思い、この時期の父との絡みをしたためる次第であります。
作文の、才能
この年のことを口実にして、父親の重い腰を上げさせるのが母の常套手段だった。夏休の家族旅行は、わがやでは最も安上がりな海水浴が恒例だった。
ところで低学年のころ、僕は『夏休みの友』とはまったく疎遠で、八月の終わりくらいになってあわてて付き合い始めるという始末だった。
ドリルはおろか、日記さえも七月中に全部仕上げてしまうツワモノもいるというのに、まったく僕のていたらくぶりは目に余るものがある。なかでも作文は面倒の極みだった。
初めての夏休みの作文は、原稿用紙の右半分だけ文字を埋めて、尻切れトンボで提出しようかとしていたところを政夫くんにみつかった。政夫くんとは、父のことである。僕は時々、最大の敬愛をこめて父のことをこう呼ぶ。
「ちゃんと書いていけよ、バーロー」
と、僕の頭をこづいた。机につき、鉛筆を持ったまま凝固している僕を政夫くんは励ました。
「あーあ。もう、見ていられねえよ。よし、おれが言う通りに書きやがれ」
海水浴に行った時の話しをしゃべり出した。しぶしぶ、すでに書いた所に付け足して、父の言う通りそのままに書いた。
「もう、お父さんは。すぐに手を出して。克也にやらせなきゃ、なんにもならないでしょうに」
と母が口を出した。
「るっせーや」政夫くんはますますやる気になった。「書かねえよりはマシだろうが」
政夫くんは僕が幼いころから、たとえばプラモデルを組み立てていると、すぐによってきて、そうじゃないだの、ああじゃないだの評論し始め、ついには取り上げて見事に作り上げてしまうことが日常茶飯事だった。
原稿用紙三枚くらいになっただろうか。
「もう、いいや。それで出しておけ」
あまりの難渋さに、彼はイラつき、そこそこのところで放り投げた。
次の日、一年生のくせに、夏休みを余裕で過ごすには、七月中に宿題をやり終えておくことだと心得ていたクラスメイトの康隆と一緒に帰った。
「どうやって、ありもしないことを日記に書けるんだ」
あったことすら忘れて、これから宿題提出の猶予期間になんとか過去をねつ造しなければならない僕とはちがい彼は未来を予言できるのだ。
「それはな」
得意げに康隆は講義をした。
「一日って、そんなにちがうわけじゃないだろう。まず、日付を全部つける。それから四十日分、最初の一行を書く。ここで大事なことはな、できる限り大きな字で書くことだ。同じように二行目だけを四十日分、三行目だけを四十日分書いていって、最後の一、二行だけ違うように書くんだよ」
すでに先生のチェックの入った日記帳を康隆は鞄から取りだした。
どこを開いても、「朝起きた」から始まっていた。今日は、朝起きた。そして顔を洗った。歯を磨いた。朝ご飯を食べた。昼ご飯を食べた。遊んだ。夕ご飯を食べた。テレビをみた。風呂に入った。ねた。
やっつけ仕事でやり終えた宿題を提出猶予にどうにか間に合わせ、ほっと胸をなでおろしていると、奇妙なことが起こった。
「武丿内くん、ちょっと」
ナナエ先生が放課後僕を呼びつけた。教壇の横の机にどっしり腰をおろした彼女の前に僕は立っていた。黒光りした机に反射した日差しが眩しかった。また、何か小言でも言われるのではないかと僕は緊張した。ナナエ先生は、引き出しを開いた。そこからクラスメイトの提出した作文の束を取り出し、さらにその中から僕のを抜き取ると言った。
「なかなかいいので、スイコウしてきなさい。スイコウ、わかりますかスイコウです」
またしてもめんどくさいことになったと気落ちした。
家に帰ると政夫くんに言った。
「とても良いから、スイコウしてきなさいってよ」
「ほうら、そうだろう。おれの言う通りにやってまちがいはねえんだ。ほら、貸してみろ」
政夫くんは原稿を受け取りながら聞いた。
「それになんだって? 何をしてきやがれってか?」
「スイコウ」
「え?」
「ス・イ・コ・ウ」
聞き取ると、政夫くんは例の国語辞典を持ってきた。彼はちょっと耳が遠い。
「おう、これだ。漢字で書くとこうだな」と言って、政夫くんは広告の裏に、
『遂行』
と書いた。
「スイコウって言葉は他にもあるが、意味を推考するとこれだろう。横に、もういっこあるな。あー、推と敲のどちらがいいか? こりゃなんのことかわからん」
言い捨てた。
「遂行にまちがいない。なになに、意味は、なしとげる、か。おい、ぼうず、なしとげろとよ。よし、わかった。がってんだ。おれも、お前の書いたのは、中途半端でいけねえと思っていたところだ」
そう言うと父は、息子を机につかせ、作文指導を開始した。
「お前の書き出しは、まずいけねえ。そうだな、こっから入ろう」
などと言い、僕が書いていた文章を消しゴムで消去させると語り始めた。字が汚いだの、枠からはみ出すなだの、さんざん注文をつけられながら、僕は彼の口述を書き取らなければならなかった。億劫で仕方ないったらありゃしない。
「よし、今日はここまでにしておこう」
勝手に終わりにして、締め切りまでの三日間、彼は十分、原稿を温めようとした。そうして会社で気の利いた文章を思いつくと、帰ってきて昨日書いた所を消させて、新しく書き直させた。
そうして提出日前には、すっかり原形をとどめない、ゴーストライター政夫の作文になっていた。
「この、『塩水をがぶっと飲んだ。辛かった』というところなんぞ、なかなかいい表現じゃないか」
などと、ひとり悦に入り、締め切りの前日に完遂したことに満足した作家武丿内政夫は煙草でもくゆらせている気分で自画自賛した。
黙って原稿を渡すと、ナナエ先生は何も言わずに受け取った。そうしてしばらく見入っていたが、僕に視線を移し、もう帰っていいですと言った。
推敲しろと言っただけなのに、全面的に加筆修正がなされているようである。が、元々の原稿がないために比べることもできず、なにも言えなかったにちがいない。それに内容はともかく、文字は、まさしくへたくそな小学校一年生のそれだった。
そしてそれはしばらくして、県の作文集に活字となって載った。
特別賞に輝いたのだ。
学生時代を通じて僕が作文でこのような栄誉に輝いたのは、後にも先にもそれしかない。父はその文集の僕のところを開いてテレビの上に飾ったり、あきるまで声に出して読んだりしていた。僕は冊子を見るのも厭だったし、読み返そうなんて思いもしなかった。それ以来、作文を書くのが大嫌いになった。でも、なんだか自分には文才がありそうだと錯覚していたのは、この時のせいなのだろう。
ああ、昭和って。
実は、僕が学校の指定する通りに蟯虫検査キットを出したのは、三度目のことだった。
二度目にはフィルムを剥がして素直に僕の肛門に貼り付けはしたものの、どういうわけか、母はこう言い出した。
「いや。やっぱり、すこしは持っていった方がいい!」
なんだか人生最大の決意にも似た猛烈な勢いがあった。
「はい、もういっかい便所にしゃがみなさい」
言い出したら聞きやしない。ーー強情なのか、間違いを認めたくないのか。
「はい、ぐっと、そこで止めて!」
ヒステリックな声で指示を出した。
「出過ぎ、出過ぎ。ひっこめて!」
ほんのちょっぴりしぶり出すのに、僕はたいへん苦労した。
「はい、そこ、そこ。そこで力をいれて! よーし」
言って母はシールを貼りもどし、下唇をうっと裏返しながら、指でうねうねフィルムの中のウンコの形を整えた。耳かき大盛りいっぱいくらいの量だった。
「これを持っていきなさい。封筒に入れておくからね」
その日の放課後、僕はふたたび保健室に呼ばれ、黙ってキットを渡された。うつむきかげんに先生がおっしゃった。
「ウンコはすこしもいりません」
このように昭和とは、前の時代をひきずっていたのである。さて、その年の秋だったか、その次の年だったか、いやその年の秋、高学年の女子生徒がいろめきたっていた。
「なにがあるの?」一人の女子生徒をつかまえてたずねると、興奮したように言った。
「田中健がくるのよ」
どこで聞きつけたのか、それは根も葉もない噂ではないようだった。
僕の小学校は、あの全国展開している熊野神社のすぐ横にあった。おおきな松明をつける大掛かりな祭りをするので有名だったが、僕にとっては、上棟式か何かで餅投げがあるというので行ったら、高い屋根から落下してきた餅が目に直撃したという痛い思い出で有名だった。
放課後の運動場にはたくさんの生徒が居残り、かれにサインをねだろうと屯していた。なぜか色紙を用意していた生徒もいたが、ノートの切れっぱしとか、上靴とか、中にはそのへんで拾った葉っぱを持っている者もいた。
「いつくるの?」
「もうすぐよ。いま、校長先生にあいさつしているところ」
そんなにありがたい人なら見て帰ろうかとしばらく待っていたが、いっこうに現れない。業を煮やした僕はちょっとふてくされて踵を返した。芸能人に興味がなかったし、有名人をありがたがる風習もよく分からなかった。西の空を見ると、夕日のオレンジが黒っぽく変わり始めていたこともある。そうして門を出て右に折れ、いつもの通学路についた。まだ敷地内の植木沿いに歩いていると、ワッと歓声があがった。きっと、その田中某という輩が生徒の前に現れたのにちがいない。
『青春の門』とかいう、これまた同郷の五木寛之が書いた小説の映画が公開されるちょっと前のつかのまの休みに母校に凱旋報告にやってきたのだ、と母の妹である絹絵姉さんは言った。
「人気に火がつく一月前ってとこね」
したり顔で絹絵ねえさんは言った。ちょっと残念な気がした。僕は、引き返さなかったからだ。
本当はここからクラスメイトの渥美くんのことを書こうと予定していたのですが、母のことを書いたからには、父のことも書かなければならないだろうと思い、この時期の父との絡みをしたためる次第であります。
作文の、才能
この年のことを口実にして、父親の重い腰を上げさせるのが母の常套手段だった。夏休の家族旅行は、わがやでは最も安上がりな海水浴が恒例だった。
ところで低学年のころ、僕は『夏休みの友』とはまったく疎遠で、八月の終わりくらいになってあわてて付き合い始めるという始末だった。
ドリルはおろか、日記さえも七月中に全部仕上げてしまうツワモノもいるというのに、まったく僕のていたらくぶりは目に余るものがある。なかでも作文は面倒の極みだった。
初めての夏休みの作文は、原稿用紙の右半分だけ文字を埋めて、尻切れトンボで提出しようかとしていたところを政夫くんにみつかった。政夫くんとは、父のことである。僕は時々、最大の敬愛をこめて父のことをこう呼ぶ。
「ちゃんと書いていけよ、バーロー」
と、僕の頭をこづいた。机につき、鉛筆を持ったまま凝固している僕を政夫くんは励ました。
「あーあ。もう、見ていられねえよ。よし、おれが言う通りに書きやがれ」
海水浴に行った時の話しをしゃべり出した。しぶしぶ、すでに書いた所に付け足して、父の言う通りそのままに書いた。
「もう、お父さんは。すぐに手を出して。克也にやらせなきゃ、なんにもならないでしょうに」
と母が口を出した。
「るっせーや」政夫くんはますますやる気になった。「書かねえよりはマシだろうが」
政夫くんは僕が幼いころから、たとえばプラモデルを組み立てていると、すぐによってきて、そうじゃないだの、ああじゃないだの評論し始め、ついには取り上げて見事に作り上げてしまうことが日常茶飯事だった。
原稿用紙三枚くらいになっただろうか。
「もう、いいや。それで出しておけ」
あまりの難渋さに、彼はイラつき、そこそこのところで放り投げた。
次の日、一年生のくせに、夏休みを余裕で過ごすには、七月中に宿題をやり終えておくことだと心得ていたクラスメイトの康隆と一緒に帰った。
「どうやって、ありもしないことを日記に書けるんだ」
あったことすら忘れて、これから宿題提出の猶予期間になんとか過去をねつ造しなければならない僕とはちがい彼は未来を予言できるのだ。
「それはな」
得意げに康隆は講義をした。
「一日って、そんなにちがうわけじゃないだろう。まず、日付を全部つける。それから四十日分、最初の一行を書く。ここで大事なことはな、できる限り大きな字で書くことだ。同じように二行目だけを四十日分、三行目だけを四十日分書いていって、最後の一、二行だけ違うように書くんだよ」
すでに先生のチェックの入った日記帳を康隆は鞄から取りだした。
どこを開いても、「朝起きた」から始まっていた。今日は、朝起きた。そして顔を洗った。歯を磨いた。朝ご飯を食べた。昼ご飯を食べた。遊んだ。夕ご飯を食べた。テレビをみた。風呂に入った。ねた。
やっつけ仕事でやり終えた宿題を提出猶予にどうにか間に合わせ、ほっと胸をなでおろしていると、奇妙なことが起こった。
「武丿内くん、ちょっと」
ナナエ先生が放課後僕を呼びつけた。教壇の横の机にどっしり腰をおろした彼女の前に僕は立っていた。黒光りした机に反射した日差しが眩しかった。また、何か小言でも言われるのではないかと僕は緊張した。ナナエ先生は、引き出しを開いた。そこからクラスメイトの提出した作文の束を取り出し、さらにその中から僕のを抜き取ると言った。
「なかなかいいので、スイコウしてきなさい。スイコウ、わかりますかスイコウです」
またしてもめんどくさいことになったと気落ちした。
家に帰ると政夫くんに言った。
「とても良いから、スイコウしてきなさいってよ」
「ほうら、そうだろう。おれの言う通りにやってまちがいはねえんだ。ほら、貸してみろ」
政夫くんは原稿を受け取りながら聞いた。
「それになんだって? 何をしてきやがれってか?」
「スイコウ」
「え?」
「ス・イ・コ・ウ」
聞き取ると、政夫くんは例の国語辞典を持ってきた。彼はちょっと耳が遠い。
「おう、これだ。漢字で書くとこうだな」と言って、政夫くんは広告の裏に、
『遂行』
と書いた。
「スイコウって言葉は他にもあるが、意味を推考するとこれだろう。横に、もういっこあるな。あー、推と敲のどちらがいいか? こりゃなんのことかわからん」
言い捨てた。
「遂行にまちがいない。なになに、意味は、なしとげる、か。おい、ぼうず、なしとげろとよ。よし、わかった。がってんだ。おれも、お前の書いたのは、中途半端でいけねえと思っていたところだ」
そう言うと父は、息子を机につかせ、作文指導を開始した。
「お前の書き出しは、まずいけねえ。そうだな、こっから入ろう」
などと言い、僕が書いていた文章を消しゴムで消去させると語り始めた。字が汚いだの、枠からはみ出すなだの、さんざん注文をつけられながら、僕は彼の口述を書き取らなければならなかった。億劫で仕方ないったらありゃしない。
「よし、今日はここまでにしておこう」
勝手に終わりにして、締め切りまでの三日間、彼は十分、原稿を温めようとした。そうして会社で気の利いた文章を思いつくと、帰ってきて昨日書いた所を消させて、新しく書き直させた。
そうして提出日前には、すっかり原形をとどめない、ゴーストライター政夫の作文になっていた。
「この、『塩水をがぶっと飲んだ。辛かった』というところなんぞ、なかなかいい表現じゃないか」
などと、ひとり悦に入り、締め切りの前日に完遂したことに満足した作家武丿内政夫は煙草でもくゆらせている気分で自画自賛した。
黙って原稿を渡すと、ナナエ先生は何も言わずに受け取った。そうしてしばらく見入っていたが、僕に視線を移し、もう帰っていいですと言った。
推敲しろと言っただけなのに、全面的に加筆修正がなされているようである。が、元々の原稿がないために比べることもできず、なにも言えなかったにちがいない。それに内容はともかく、文字は、まさしくへたくそな小学校一年生のそれだった。
そしてそれはしばらくして、県の作文集に活字となって載った。
特別賞に輝いたのだ。
学生時代を通じて僕が作文でこのような栄誉に輝いたのは、後にも先にもそれしかない。父はその文集の僕のところを開いてテレビの上に飾ったり、あきるまで声に出して読んだりしていた。僕は冊子を見るのも厭だったし、読み返そうなんて思いもしなかった。それ以来、作文を書くのが大嫌いになった。でも、なんだか自分には文才がありそうだと錯覚していたのは、この時のせいなのだろう。
ああ、昭和って。
