山口洋平監督『グッドモーニング・ワールド』上映会に参加しました。

私は、作品というものを観る時、自分を見つめる道具として厳しければ厳しいほど善いと思っている。つまり透明であればあるだけ、善い。作者というフィルターを通していながらである。作品の向こうに自分自身が透けて見え、それがこちら側の自分より美しくそして円満さをもった姿であれば、満足だ。

日ごろなにげなく思い込んでいること、固定観念や30年つきあっている旧態依然の信念、これらにアンチテーゼなり覚醒を起こす場面、会話、成り行き、展開・・・。そういったものが1ヶ所でも含まれていたなら、極めて幸運であると思う。そしてそういうものがあった仕事を作品と私は呼んでいる。

作者の意図とは関係なしに、彼が意識すらせずに入り込んでいる自己透視装置、これが私に先の作用を起こせば、幸せなのである。

どうしても客に媚びなければならない商用の映画では、これを私にもたらすものは少ない。もちろん、私の感受性の問題も多分にあるのであるが。

そしてそういう作品を送り出している作家のひとりが山口洋平監督であることに異論をはさめる者は少ない。

グッドモーニング・ワールド。

惜しむらくは、15分ほどの作品であったが、異業種交流会での上映であった都合で1回しか観ることができなかったことである。2,3回観ればもっと正確にそして細かなニュアンスまで感じ取ることができたかもしれない。

第一、ストーリーすら正確に把握しているかわからない。誤解や見間違いも多分に含んでいると思うが、ともかく私にどう見えたかを記しておく。

中絶、流産、あるいは望まぬ妊娠か、もういちど確認すれば明確になるのであろうが、(もしかすると意図して不明瞭にしてあるのかもしれない)そうした事情をかかえた女が悩み、鬱のような状態になっている。そこから逃げようと睡眠薬を多量摂取している。あるいは死を企図していたかもしれない。

『人は他人になにかをさせたがる。わたしは、そうはしたくないのよ』
女が言う。
そうして男が言う。
『同じものはなにもない。繰り返すことはできる。でも、死だけは繰り返すことができない』

女は夜の街にでる。振り返れば、誰もいない暗やみに一本の道があるだけ。そして、つぎの日、男の言葉に救いを見いだした女は、部屋の窓を開け、明るい朝の空に微笑みかける。まるで、すばらしい朝に、新しい世界を見るように。

男と女の会話は、論理的主張の応酬。そして、それ以外のシーンは徹底的にカットだけで見せる。

場面が描く状況の把握のしにくさは、意図されたものである、と私はみた。
観客がとらえやすい構成をすべてはぐらかし、理解のしやすいパタンを超えているのだ。したがって、特に観た直後は、くっきりと隈取りをしたように頭脳や心に刻み込まれることはない。おぼろげにぼわっとまるで煙のように漂うだけだ。

すべての場面や会話が、AなのかBなのか、善いのか悪いのか、どちらかのカテゴリーに明確に分かれて属していることはない。あいまいさの極地である。

このあいまいさは、なんとなくそうなっているのではなく、また日本的和合の精神がそうさせているのでもない。細部に渡って緻密に意図されたものだ。それゆえに、心地の良いあいまいさである。

観客は、これまで観たどんな映像から受けた印象ともまったく異なる感想をいだくにちがいない。画面からは、どちらかと言えばネガティブな場面が流れ続ける。けれども見終わったとき、ぽつんと中立なところに自分がいるのに気づく。この時点では、まだ何も言うことができないのだ。ぼう然とした状態に置かれていることにさえ気づかないのではないだろうか。

私は、この映画を観て、作者の主張を受け取った、というより逆に私の主張を作者に吸い取られた、そんな気にさえなった。

一日経った今でも私はこの映画をなんとして捉えるか、理解して分類できるか、決めきれないでいる。いずれ、ふとある時それがなされるであろう。だが、今はまだだ。

監督は、役者にもいわゆる上手な演技とかうまい演技など絶対にさせない。演じているという姿勢や意識すら全て剥ぎ取って、役者の素地だけがさらけだされる。おそらくはどんな名優といわれる役者でさえも、彼の手にかかれば、素人のようなアラレもない姿をあらわにしてしまうであろう。観ようによっては、登場人物がシュールレアリズムを究めた漫画のキャラクターのように思えてくるかもしれない。

グッドモーニング・ワールドは、映画の形を借りて浮き出て揺らいでいる、自在に形を変えて漂っている雲のような幻影を観客がなんとして捉え直すか、その点において、山口監督とのサシでの勝負という気がした映画であった。自分自身の内面をすべて見尽くした、自分で自分の知らないところはない、そういう自負を持つ人こそ、観る価値のある映画である。

私は、映画の向こうに、より洗われた自分の姿を目撃した。確かに私はこの映画に、眼福を得たのである。


山口監督は地方在住だが、とくに自分の住んでいるところを盛り上げようなどとは思っておられない。それはまったく自由な態度である。けれども私は、山口監督と距離的にちかく、また気さくに話しができる機会をもてたことをたいへん幸運に思う。

そしてまた、変化を拒んでいることにさえ気づいていなかった固い観念の部分に、煙のように縦横無尽な一石を投じられたことを幸運に思うのである。