すこし古い話題になって恐縮なんですが、『古湯映画祭』のことを書きます。

古湯は、佐賀県にある温泉街で、毎年、映画際が行われております。2010年は、李相日監督がやってくるというので、いそいそ出かけた次第であります。

前回か前々回か忘れたが韓国の映画がやってきて、モザイクなしの濃厚なラブシーンが、物語りの関係上どうしてもカットできない様子で、大画面に映し出され、それを狭い体育館ふぜいの劇場ですし詰めになった三百人が観るハメになり、大いに白けてしまった経験があります。
どうも僕は、流行の韓国のドラマや映画は、ちょっとご遠慮したい気分なのですが、(というのも、あんなにベタベタな展開なのに、つい見入ってしまうからです)在日朝鮮人の監督の作った映画は、どれもこれもたいへん高く評価しています。小説についても然りです。ほとんど日本人なのに、外国人の視点をもって日本をとらえているからでしょうか。

今回は話題作『悪人』です。
ポスターをながめながら、観たいなあ、とつぶやいたら、二三日後に友人から電話がかかってきて、チケットを取ったという。しかもタダでくれると。
 
予想外というか予想通りというか、たいした盛況ぶりで、会場に詰め込まれてそれでも入りきれない人がいたり、早く始めろとクレームが出たりで、険悪な雰囲気になりそうだったのを打開したのは、監督と柄本明と満島ひかりの三人による(緊急の?)舞台挨拶だった。そのあたりの様子は各種ブログで報告されていることと思うので省きます。

この監督の映画は、レンタルできるものはすべて観ている。『69』が最初だったが、おもしろかったし笑えた。才能を確信し、正直感心した。ところが、原作者の村上龍と同じ高校出身の知人に言わせると、校門までの坂の感覚がちがうのだそうだ。撮影を申し入れたら、村上氏は創立以来の汚点になっているようで、名前を出した途端、丁寧にお断りされて、しかたなく関東かどこかの高校でロケを敢行したらしい。
したがって、知人は、僕の李相日才能説に首をかしげる。長崎は坂の多い街である。知人に言わせれば、息せききって登りきった所にやっと校門が現れなければ、リアリティがないとのこと。その時点で白けて、彼は映画館を出たのだそうな。もったいない。というより、そんな馬鹿な、と私は思ったものだ。自分の価値観、感覚に合わないからといって、これはまちがっていると決めつけてそれが全てを台なしにしてしまうなど、一体、彼はなんのために映画を観ているのであろうか。
しばらくの間、そう思って彼を軽蔑していた。映画通の彼に何を言っても無駄か、と思わないでもなかったが。ところが、それからしばらくして僕はダンテの『地獄編』を読んだ。開いたページをところどころ読み、よし最初から順を追って読もうではないかと思い立ち、『ダンテ物語』という小説風に書き直した本まで持ち出して比べながら読み進めて、これは、なかなか真実がちりばめられていると感嘆していた時、ある一行に出くわした。

 『キリスト教の洗礼を受けていない者は、たとえ徳のある人でも地獄へ堕ちるが、ただ地獄としては一番上のリンボにとどまる』

それは、ない。
この一行のせいで、すべてが信用ならぬ言葉に思えてきた。僕は基督教徒ではないが、バイブルに記述してあるイエスという人物の言ったとされていることは、否定するつもりはない。深遠な意味をもっていると思わせる何かがあるのは認めている。しかし、この一行以降、読む気がなくなった。というより、読み進める必要がないのだ。煉獄篇も天国篇も、基督教徒でない僕には存在しない。そこにどんな真理が、楽園が描かれていてもだ。基督教会に入っていないそれだけで、地獄にとどまる悪人なのだから。であるから、知人の不埒も赦さざるをえない次第である。

映画である。
端的に言えば、ひとこと。おもしろかった。ハラハラさせられた。しかし、主人公ユウイチは、悪人以外の何者にも見えなかった。外国人記者向けの会見で、台湾の女性記者が妻夫木聡に「そんなかわいい顔して、とても悪人には見えません」などと、まあリップサービスもあったのだろうが、言っている場面がテレビで報じられていたが、ユウイチが逮捕される前に、すべてを自分の犯行に見せるために深津絵里の首を絞めても、日常に戻った深津絵里がユウイチを偲んで、彼は本当に悪人なのかと問うても、やはり悪人なのだ、と思った。

悪人が不適切なら、無知である。出てくる人出てくる人、無知で愚かである。つまり、この事件は無知な人々によって繰り広げられた無知な出来事としか言い様がないのである。

一体、誰が悪いのか。犯人か? 被害者か? 犯人を捨てた両親か? 被害者をもてあそんだ若者か? あるいは、社会の雰囲気か、インターネットか、出会い系サイトか。どれも悪くないのか、どれもが悪いのか。そんな問いかけをこの映画はしたいようである。いつ、あなたもこの状況に足を取られるかしれませんよ、そう言いたいのかもしれない。

実際、映画を観ながら、これはどこに着地させるつもりなのだろうと思った。やり尽くされたパターンなら、いかにも悪者とされた犯人が、本当に悪人なのか、ちがうのではないか、というアンチテーゼ。彼を犯罪に持ち込んだ真犯人は、人間ではない何かだ、というオチ。

しかしそうはならない。

微妙なバランスの上に乗っている事件の全体像。

こういう落とし方に、私は李監督の生い立ちや境遇を思ってしまう。

閉塞された漁村に住んでいた婆ちゃん子のユウイチがいつでも欲望を実現できるアイテム(携帯電話)を手にしていなければ、この事件は起きなかったのだろうか。ありきたりの結論には達したくはないなあと思いながらも、ではなんだと言い切れないところにこの映画の深遠さがあるのかもしれない。

映画を観ている内に、ストーリーとは関係ないことに気がつき始めた。
不思議な気持ちで画面を観た。というのも、役者の横や後ろにもうひとり人が透けて観えるのだ。つまり、樹木希林の演じようとしていたババア。柄本明のなろうとしていたおっさん。妻夫木聡のなり切ろうとしていた青年、宮崎美子のやろうとしていたオバチャン。それらの像が俳優から分離したように白くぼわっとあるのだ。残像のようにつきまとう。こんな経験はかつてなかったので、どういうわけでそうなっているのかは分からない。しかし、深津絵里とユウイチの祖父役の井川比佐志には、それが見えなかった。柄本明も途中から消えた。

シンポジウムになった。
司会と配給会社の女性敏腕プロデユーサーに挟まれて、李相日監督、美術監督の種田陽平、柄本明、満島ひかりの順に並んでいた。よく見ると、この四人はみな太陽、光に関連した名前だった。

同行した地元の知人が桟敷を前に前に進んで行き、ステージのまん前に腰をおろした関係で、偶然、本当に偶然、満島ひかりさんの正面に座ることになってしまった。それでしかたなく、僕は彼女の目をじいっと食い入るように見つめた。本当にしかたなくだ。

生で見る彼女は日本人離れした美貌で、どこかで見た顔だと思ったら大学時代の後輩にそっくりだった。が、ちがうのは背が高くほっそりしているという点だ。視線に気がついたのか、満島さんも僕の目を見ていた。よし、これは根比べだ。五秒は視線をそらさないぞ。そう決意するものの、三秒もたない。僕は、ふっと目線を外してしまう。十秒見つめ合うことができたら、恋に落ちないではいられない、と何かの本に書いてあったのに。惜敗の念を抱きながら、僕はもう一度、女優の瞳を見つめる。彼女はさすがに女優である。しっかと僕の目を見つめたままである。駄目だ。またもや、二秒。私に恋の才能がないとすれば、これだ。奮起して、僕はまた女優の目を凝視する。すると今度は、彼女は後ろの席の方に目をやっている。肩透かしか。そんな一人相撲をとっている内にシンポジウムは佳境に入ってきた。

「ふたりの待ち合わせ場所の駅にSAGAの文字が入っていることは必要なことではない」

客の質問に対して監督は、そう答えた。福岡、佐賀、長崎三県ロケの地元上映の席で堂々とそう明言できる李監督おそるべしである。古川知事もまっさお。(実際来場されていた)佐賀に住んで日の浅い、新参者である私は、いまだに自分は福岡に住んでいるような気でいるので、ざまあみろといった気分がなかったわけではないが、光代(深津絵里)の住んでいる土地が、佐賀であるというのは重要なことである。監督が、どう思おうが、僕にはそう見えた。
なぜなら、彼女の住んでいるのは、大阪ではいけないのだ。東京などありえない。島根でも山形でもダメなのだ。佐賀でなければならない。そんな考えをめぐらせている間に、いつしか僕は満島ひかりの目のことは忘れていた。
人口八十七万、駅前でさえ人気のない佐賀。田んぼを埋め立て、デオデオ、ツタヤ、イオンモール、ベスト電気など、全国区のチェーン店をやっとこさ市内にそろえた佐賀。探さなければ見つからない佐賀。犯罪都市福岡にひけめを持つ佐賀。学校中が同じ床屋でカットした髪形をしている佐賀。佐賀でなければならないのだ。そんな都会とはかけ離れた土地でさえ、都会と同じ犯罪が起きてしまうところに現代の現代性があるのである。などと私は評論家ぶって考えたものだ。

役者のうしろに映って見えた亡霊のような残像については、「撮影の笠松監督は役者の空気感を写すのがうまい」李監督がさらりと言っていたことに鍵があったのかもしれない。

満島さんはその直後、結婚を発表された。なんだ、僕に気があったのじゃなかったのか、などと残念がるのは中年の悲しき誤解である。しかし、相手の男性を見て、ちょっと腑に落ちた気がした。相手は映画監督の石井裕也氏で、ちょっと僕に似ていたのである。それで、もしかするとなんとなく僕を見ていたのかもしれない、などと空想するのは、またまた中年の悲しい誤解であろう。

そんな話しをすると、知人は「満島さん、視力がわるいのかもね」と言った。実もフタもないではないか。

それから僕は石井裕也の作品を観まくった。おもしろかった。『ばけもの模様』これは、四回観て初めて喜劇だと気づいた。気づいてからは、十倍楽しめた。

僕は、満島ひかりの目を通り越して彼女が見つめている石井裕也の目と、何時間も見つめ合ったのだった。