私の前を通り過ぎた書物は、どれだけあるだろう。おそらく、五千はくだるまい。万に迫っていることだろう。私の部屋の壁は作り付けの本棚で埋め尽くされ、まるでアカシックレコードに取り囲まれている様を物理的に再現しているかのようだ。
1行しか読まなかった本、題名だけしか見なかった本も1、2割は含まれている。けれどもその本は私にとって、充分役割を果たしたと言える。
1冊を二千回以上繰り返し読んだ本もある。その本との邂逅のために、これまで読み続けてきたと思えるような気にさえなった。
けれども私は、知識を増やすために本を読んできたのではない。むしろ、それを捨て、認識を高めるために読んできたのだ。
もちろん、認識は知識の上にあるかもしれない。多くの知識を統合した高次概念が認識である。
けれども私の認識では、人間のたましいには、元々高次概念が潜んでいる。それを思い出すために知識を重ねるのである。
実は、知識を重ねる必要もない。自分の認識に説得力をもたせるためにそれらはあるようなもので、日常のどんなにつまらないことでも、潜在的な高次概念を思い出すきっかけになりうる。
あるいは、偉人の残した言葉のエネルギーに触れて、それらは発せられるかもしれない。
高い境地に至った人の残した高い認識を暗記するのでなく、それを並べてさらにその上に立って自分の認識を高めるのである。昇華された境地のさらに昇華した状態。統合された認識のさらに統合された認識。私の求めてきたのは、これだ。
どうにかして認識が高まれば、信念となりまた性格となって、発言や行動に現れる。これが、その人のひととなりあるいは人格となって放たれるエネルギー波なのではないか、と思われる。
観念や概念、方程式と呼ばれるどちらかと言えば、理性勝ちになっている過去の記憶ではなく、認識や信念は、あるいは知恵と呼ばれるものは、たましいの働きのように思う。つまり今を以て未来の創造を司っているのである。これこそが、自由の源なのだ。
そうなった時、書物からも解き放たれた。習慣が変化した。読まなければならないという切迫感がなくなり、かえって読書量が増えた。
そしてますます私の認識の高まりは加速している。ますます人格が円満になっていく。
というと、私がなにやら高貴ですばらしい人間のように聞えるかもしれないが、実はどうやら、その反対になっていくようだ。
罪悪感、不安、自己否定のほとんどない、被害者意識も他人事意識もほとんどない、焦りも切迫感もない人間がどうなのか、ちょっと想像していただきたい。
私はそんな、ちゃらんぽらんで不確かな人間なのだ。
