子供の見守り当番に立っていました。

他の当番の人がやってきました。

しばらく立ち話をしていて、私が「こんなことをしなくていい社会を望みますね」と言ったら、その人は「それはイカン!」と半ば怒ったように言いました。そして、義務は果たすべきだと言いました。

私は可笑しくなりました。

当然、同意がくると思っていたのに、この人は、子供がいつも危険にさらされていつも不安でいなくてはいけない社会をやめたくないと言っているのですから。

彼が、望んでいるのです。誘拐犯の存在を。

私はどうすれば、誘拐犯などいない社会になるのか、説明しました。

「まず、裁判と懲罰制度を見直すことです。あくまで更生と隔離に主眼を置くことです。それから、人間が一体何をしているのか。他人になにかをすることができるか、すべての事は自分にしていると知れば、犯罪といわれることをやる気になるでしょうか? それでもやるのなら、癒されていない部分がおおきいということなので、別の問題になります。魂のつながりとか、そういう側面から教育を変えていけば・・・」

けれども彼は、途中で鼓膜を裏返したようになって聞えなくなりました。

立ち話にしては、重すぎたのかもしれません。けれども、偉い法学者の先生や政治家だけが考えることでもない。法律をつくってばらまき、支配することではない。子を持つ私たちひとりひとりが見据えなければならないことだと思うのです。それは、見守り当番をサボらずやるといったことではないでしょう。

交代まぎわになって今度は女の人がやってきました。孫の見守りなのだそうです。

私はこの人にも同じことを言いました。けれども、彼女は「わかりません」と言ったっきり口を閉ざしました。

「いいですか、少なくとも100年前には、いまほどはなかったんですよ。報道するようになったから増えたように感じただけではなく、実質的に増えているのは、考え方が変わったからではないですか? 変わらなくてよいところが変わったからではないですか?」

彼女の目が泳ぎ始めました。

彼らは善いことをしている自分が好きなだけなのではないでしょうか。

善い事をするために犯罪者を創り出し、利用しているとさえ言えます。

弱き者を心配してあげている自分をなくしたくないのです。

戦前の日本には同胞愛というものがあったのではないでしょうか。それがベストだとは言いません。けれども今は、我欲を満たすためには、他人を蹂躙するのも仕方ないという信念に変わっているのではないでしょうか。自分も加担していることを誘拐魔が犯罪という形でおおっぴらに実演して見せているだけなので頭ごなしに否定することすらできない。そんなふうにすら取ってみたくなる、あまりの無知と依存。

私は、見守り当番などしなくてすむ社会に舵をきり、子供の事件が減る方向に進むのをみな望んでいるものと思っていました。かれらは犯罪者のことを憎み嫌っていますからね。撲滅しろと叫びますからね。

ところが、どうやらそうでもなさそうです。

私の語った方法はともかく、見守りをしなくていい社会を否定するのは、どういうことなのでしょう?

彼らは犯罪者を捕まえて罰を与えれば気が済むのでしょう。

そんなことをしても事件は戻らないし、これからも増え続けていくだけでしょう。
起きないようにするのが、望むところではないでしょうか。そして起きないようにするには、みんなが法律を守るように法律を強化するのではないことは、すでに歴史が証明しています。

霊格を高めていくことに教育をシフトしていくところに答えがあることは、もうわかりきっています。なのに、なぜいつまでも歴史と称したあるしゅの信念のすりこみを平然と続け、科学と称した制限のきつい物の見方ばかりを正しいこととして暗記させて、そうした世界観を観念化させていくのでしょうか?

たし算、引き算も重要です。けれども、たとえば一個のまんじゅうを5人で分ける方法を話し合う方がもっと役に立つのではないでしょうか。そこにいる5人が納得するやり方を思いつくことはたいへんな喜びがあると思います。公平感が平等とは異なることを知ることでしょう。

そうしたことはなにも目を向けず、市民と行政が一体となって、などと言い、行政に要求された対策を市民にさし戻し、やらせ、みんなでやらないから事件が起きたのだと言いたい。そうした小競り合いの合間をぬって事件が起きたりする。

とりあえず、見守りには立つべきでしょう。見守りに立たないでよい社会を望んでいない人が多いのですから。けれども、目指すのは立たなくても安心していられる社会ではないでしょうか。安心のために見守りに立つなど、矛盾も矛盾です。

本当に見守らなくてはならないのは、見守り当番をしたがり、またさせたがる人たちなのかもしれませんよ。