ルールを守れと社会に向かって訴える人は、

彼らが蛇蝎のごとく毛嫌いしている暴走族の騒音と同じか、

それ以上の公害をまき散らしていると思います。


なぜ、愛が行動の原理にならないのでしょう?


恐れはいつも使っていて、自分のものだと思っているのに、

無責任はいつも使っていて、自分のものだと思っているのに、

愛だけは、他人のもの、よく分からないもの、忌み嫌ってあざけるもの。

無責任にだけは責任をもっている。

恐れだけはシグネチャー入りで支持している。


そういうのを見かけると、おもわず吹き出してしまう。


ルールを守れと訴えて、自動で他人が全員言いなりになるのを夢見れば夢見るほど、

もう一度、ルールを守れと訴えなくてはならない事が起きる。

たくさんの違反を作り出し、例外を取り込むのにやっきになる。

とがめればとがめるだけ、罰を強化すればするだけ、

もっととがめなければならないことが、もっと罰を強化しなければならないことが起きてくる。

秩序を作ろうとして、完全に調和を乱す。

なぜか? 

恐れから発想されたことは恐れを生み出すだけだから。


9割以上の人が自分の同意事項として、とりあえずルールを守ってくれていることが、

どれほど奇跡的でありがたいことなのか。

そこに目を向けず、全員参加の完全自動化をめざして激怒することの、なんとおこがましい。

公害というより、たいへん面白い夢遊びだな。

資産運用の達人だ。しかも絶対儲かる確実な投資だ。8倍返しで、望まないことが戻ってくる。


愛は定義できないけれども、誰でも知っている。

知っているのに、知らないふりをしているだけなのだ。

本当は、簡単なこと。

だけど大人のふりをして、頭の良いふりをして、

問題をこじつけ、こねくりまわし、難しく複雑にしてしまう。


愛はルール違反も認めた上で愛なのだ。

愛こそが宇宙のルールだ。例外はない。

愛だけが調和をつくる。

守られなかったルールにも、ただただ愛であればよい。

彼は、彼が他人に与えたものを受け取るし、僕は僕の出したものだけ受け取るのだから。

そのことがわかるために、この世界はある。

この世界は永続する。

気づいた者から卒業する。

それだけのことかもしれない。