「ボブ、おまえは、人の心の痛みが、わかって・・・いない」
分かっていなかったのは、果たしてボブだろうか。ボクは分かっていたのか。ボクは他人の絵の良さが本当に分かっていたのだろうか。ボクは自分のことばかり分かってもらいたかったのではないか。分かってもらいたいから、安易に他人の絵を褒めることができたのかもしれない。ボクは他人のこと、いや自分のことすらよくみえていなかったのではないか。それなのにボクはボブに半年もの間、辛く当たり、自分と同じになるよう足を引っ張ってきた。ボブが先に行ったのなら、どうしてボクはそこまで行こうとしなかったのか。ふたりの間で勝った負けたの戦いをしているのではないのに。それに、たしかにボブは金を稼いでいないが、その分、孤独や雑念の葛藤を乗り越える苦しさがあるではないか。世間から見ればボクは立派かもしれないが、それは芸術とはさほど関係ない。何万キロ、トロッコを押したところで絵がうまくなるわけではない。現にボブの描いた絵はハインツの百倍はありました。しかもハインツはいつも描きかけで次の絵に向かうのです。ボクは他の仕事を持っているぶん、ボブよりもっと情熱的に取り組まなければならなかった。使える時間がちがうのに、同じような取り組み方では、絶対量がちがってくる。それにボクはボブの知らない世界を体験しているのに、題材がボブと同じでは、それが生きない。ボブは、人を非難したり、恨んだり、嫉妬するのに心を囚われず製作に打ち込んでいた。何より、明るく朗らかで、自分の未来を信頼しきっていたではないか。そのことを素直に受け入れなければならなかった」

ハインツは一瞬の内にすべてを明らかにした。
けれど、このときすでに遅かった。
「ハインツ、ぼくは今日限りでこの部屋を出るよ」
「なんだって?」
「芸術院から誘いがあったんだ」
ハインツはこれを聞いて愕然とした。
いま、彼が明らかにしたことは、心の中で以前からくすぶっていたことだった。弱さから、それを覆い隠し、周囲のせいで不遇なのだと錯覚させようとしたり、八つ当たりしたりしていたのだ。
ボブは芸術院に返事をするぎりぎりまで迷っていたのだった。
最後に残されたハインツの課題は、友をこころよく送り出すことであった。
ボブ・スキャットマンは首都にむかう汽車に乗り込んだ。窓越しに悲しそうな顔をしている。ハインツは無表情にボブの顔を見ていた。汽車はゆっくりと動き出した。だんだん車輪の回転が増した。ハインツは小走りにんりながら、ボブを見上げた。ボブは窓硝子に頬を張り付かせハインツを見ている。ハインツは汽車の速度に追いつけずに立ち止まった。そしておもいっきり大きな声を出した。
「おめでとう」
ボブは高速で走る汽車の窓を開けると叫んだ。
「必ず、かならず、来いよ。待っている!」
ハインツの姿がちいさくなった。

                     (April.07.2000)