シンクロニシティー
という言葉は、昨今よく聞くようになった。
私の場合、これもシンクロ、あれもシンクロとなんでも自分善がりにこじつけてしまうのだが、これはさすがに決定盤だろうと思えることがあった。
もう、数年か前になる。足立育朗著『波動の法則』なる本を読んだ。私は、心の覗き窓を広げることを読書の目的にしているので、胡散臭そうな本ほど好む傾向にある。したがって、『独習 裏千家の湯』とか『フランケンシュタインの日記』とか『暴露エイズウイルスは細菌兵器だった』とか『二〇〇二年ムー大陸大浮上』とか、果ては『クラリオン星人にさらわれた私』とか、まあ、青虫みたいになんでもカジリつくのである。(それで、大きな声では言えないが、すぐに作者の意見に乗ってしまうから始末に終えない)
さて、その本の83ページに、次のようなことが書かれていた。
陽子ようし=意志=愛。
行間を空け、字体を大きくしてまで書いてあるので重要なことなのだろう。原子核は中性子と陽子でできていて、中性子は意識で調和、陽子の方は意志でありまた愛であるというのである。ふむふむ。なんだかよく解らないし、解ったところでなんなんだろう、などと思いつつ、とりあえず、ざあっと読み終わり、本棚に入れて寝転がると、ちょうどそこにあった(私の部屋の二面は本棚で埋め尽くされ、あいうえお順に並んだ著者名の『ま行』が顔の右上になる)三浦綾子著『続 氷点(下)』の文庫本が目に留まった。
目が合っちゃった。というか、私は五秒ほど本と見つめ合った。(ああ、人間の女性と見つめ合う勇気こそ、欲しいものだ!)そんなことが時々あるので、引っ越すたびに重労働になることは解っていても、なるべく本は捨てたり売ったりせずに全部取ってある。
『氷点』は、高校時代に国語の教師に勧められて読んでいた。その後ずっと経ってから『続の下』だけを古本屋で見つけて買ったのだが、読まずにホコリをかぶっていた本である。なんとなく、それを引き出さなくてはならない衝動をおぼえた。
面倒だな、と思った。探していたわけでもない本に、えいっとばかりに手を伸ばし、人さし指と親指で両隣の本をほどよく押しのけ、五本の指でつかみ、滑りの悪い天然木の棚で本の底が擦れないように加減しながら引き抜いて、左手に持ち替えて、あてどもなく開くという作業を想像して、一旦は躊躇した。けれど、その予感にあらがいきれなかった私は文庫本を取り出し、本当になにげなく、ぱっとあるページを開いた。するとそこには、こんな会話が載っているではないか。p364。
『ーー陽子は北原の姿を思い浮かべた。
「愛は意志だ」
と、啓造はいった。その言葉の深い意味は、まだよくわからない。しかし陽子は、その確たる意志が与えられたと思ったーー』
嘘だろう、と思った。
主人公、陽子ようこが父啓造の言葉を思い出すシーンである。会話は、p329から330に交わされている模様。形態波動エネルギー研究者と小説家。この人たちは話しあって書いたのか。いや、足立さんが三浦さんの本を読んで書いたのかもしれない。いやいや、それより前に三浦さんが足立さんに会っていたとも考えられる。しかし、科学者のようなふりをして、二人の接点を疑えば疑うほど、私の話こそ疑わしくなってしまう。足立さんは、宇宙からのメッセージとして受信したと言っているし、愛が意志だという認識はおそらくキリスト教の一部で語り継がれてきたことで、基督者の三浦さんは、それを自分なりに深めて主人公陽子を意志の人として愛を表現した。
ともかく、私は全くなんの関連も脈絡もない(であろう)二冊の本を同じ日に開き、そこに同じことが書かれていることを発見したのである。これをシンクロニシティと言わずして、なんと言うのか。シンクロのシンクロではないか、などと、まるで自分一人にしか起きなかった奇跡の一致のように私は驚き呆れて、しばらく友人知人に言いふらし、余韻にひたっていたのだが、私に起きたことだから、日本中で同じことが起きていないと誰が言えようか。
よし、それなら、私にしか起きなかったであろうシンクロニシティはなんだ。
あれは、私が会社を辞め、分不相応な一軒家で貧乏暮らしを始めて間も無い九月ごろのことだ。風呂場の石鹸がだんだん薄くなり、透かせば向こうが見えそうになった。
「おい」と私は金も稼いでいないのに、偉そうに細君に言う。「石鹸、新しいの取ってくれ」
「ないわよ、買い置きなんか」
「そ、そうか。そうだな」
しぶしぶ私は納得し、肌に直接石鹸をこすりつけ、タオルにロスするのを防いだ。さしてさらに数日経ち、さあもう、いよいよ石鹸がその機能を果たさなくなったある日、一通の葉書が舞い込んだ。
その日は、朝から雨が降っていた。バイクが止まる音がしたので玄関に行くと、花柄のエンボス加工を施したガラスの向こうに黒い大きな影が現れ、郵便受けに何かが差し込まれた。まるで輪転機から出てきた板のようににゅっと出てきて、そのままポトリと廊下に落ちた。拾い上げると、知人からで、彼が会社を辞め開業独立したという知らせを読み取るには十分だったが、万年筆で書かれた文字は、雨で濡れて血文字化していた。顔をあげると、コトンとスタンドを外す音がして、バイクはエンジン音を響かせて次の家へと向かった。
次の日は、晴天だった。昼ごろ、ブサが鳴った。玄関に行き、ドアを開けると、男の人が立っていた。白いヘルメットと黒っぽい制服姿で明らかに郵便配達人という風情であった。書留かなにかだろう、と思っていると、その人は申し訳なさそうな顔で、
「すみません。葉書を雨で濡らしちゃったので」
と言い、お詫びにと包装された小さな箱をひとつくれた。
開けてみたら石鹸だった。
なんだよ、そんな大仰に語ることようなことか? そんなことくらい自分にだってあったぞ、と読むのを止めようとしたあなた、ではでは、いくら日本人が一億二千万人いて、その人々の繰り広げる魑魅魍魎の事象があったところで、これはありえまいという取って置きの話を披露しようではありませんか。
妻とスーパーに買い物に行ったが、その前に本屋に寄った。
『乳と卵』
なんという題名だ。生々しくあからさまで、赤裸々に人の弱いところを暴き立てていそうな本だ。これは、買いだ。そう思った私は、妻にすり寄り言った。
「ねえ、千円なんだけど、一冊本買っていい?」
「あ」
と妻は言った。本には目もくれずに。
「ごめん。今日、千円しか持って来てないんだ」
「あ、そう。それなら仕方ないね」
「じゃあ、私、買い足しに行ってくるから、他の本でも見てて」
妻はそう言い残し、本屋をあとにした。私は、『乳と卵』を元あったところにもどし、こづんである本の山をうらめしく見つめながら、あきらめる理由をさがした。甘い葡萄の実を見上げて、あれは酸っぱいと思い込もうとする狐にはなりたくなかったので、なにも考えないで諦めた。
ころ合いを見計らい、妻を迎えにスーパーの方へ歩いていると、ちょうど中ほど、駐車場の途中で出くわした。
「やあ。何買った?」
私は聞いた。妻は小さなレジ袋をひとつ提げていた。そして、こともなげに答えた。
「牛乳と玉子」
嘘つけ。作ってるだろう。『乳と卵』をあきらめて買ったのが牛乳と玉子だなんて。と、思ったあなた。ならば、もうひとつ。あれは、数週間前、・・・。
この手の話って、話す方はおおまじめなのだけれど、聞く方はいつも眉に唾をつけたくなる。
シンクロしない、シンクロニシティの話でした。
